それは、もしかしたら運命だったのかもしれない。
それは、もしかしたら運命ではないのかもしれない。

しかし、今この瞬間。
それを定めてしまえる二人が出会ったことは事実で。
交易街の、ひかるいし
「────すみません! そこの、方!」

水の街と呼ばれるダーハルーネをぶらぶらと歩いていた時のことだ。それなりに身なりの良い人間たちが歩くエリアに入っちまったようで、あぁやべえなと退散しようと踵を返した瞬間、真横の階段から声が落っこちてきた。

「……っ痛」

咄嗟に腕を伸ばして受け止めた藍色の塊はどうやら女のようで、やわらかな感触が掌に。腕の中で抱きとめた人間の顔が上がり、赤い瞳と視線がかち合った。

「も、申し訳ありません……!」

謝罪と共に退こうとしたそいつの表情は、足でも捻ったのか僅かに翳る。と同時に階段の上が何やら騒がしくなってきて、それを察知してか煩わしそうに顔をしかめた。

「アンタ追われてるのか?」
「……そう、ですね。はい。すみません、階段から落ちてしまったのを受け止めて頂いたのに、お礼は出来そうに」
「あぁ、ならちょっと黙っといた方がいいぜ」

女が追われてるとなったら、まぁちっとぐらい手を貸してやってもいい。抱き抱えたまま立ち上がって、取り敢えず街の外へ続く道へと駆けだした。




挨拶もお互いの名前もそこそこに、土地勘があるだろう相手に案内されて着いたのは街を出たところの海に面した草っぱら。内海だとかなんとか。

「ほら、これでも無いよりゃマシだろ」
「あ、ありがとう、ございます」

海が見える岬っぽい場所に降ろした後、川で濡らしてきたお嬢様のハンカチを渡す。ブーツを脱いで藍色の裾から覗く足はマメもなんにもなくて、あぁあそこに住んでたんだろうな、っていう服装やハンカチから起こした推測を補強した。

赤くなった足首をそっと押さえる手も苦労なんて知らないだろうカタチ。何で手を貸そうと思ったのか、正直自分でもわからない。下手したら街の有力者を敵に回すって話だ。

「……」
「あの、訊ねたくはならないのですか」
「そりゃ、何で追われていたのか、ってか?」
「はい」

金色の髪の毛に、赤い瞳。雪の冷たさも知らないような綺麗な手。このドタバタで裾に泥跳ねしちゃいるが、上等な藍色のスカート。そして真っ白なハンカチ。白っていうのは誤魔化しようがないから生地としては一等難しい色だって旅の間で聞いたことがある。

「どうせ話されたってわからねぇしな。でも話したかったら話してもいいぜ」

一人分空けて空を仰ぐように寝転がる。
行きずりの人間に話してしまいたい衝動っていうのは誰にでもあるもんだ。……それが許されるかどうかは別にして、だ。

「お父様が、私を女学校に入れると、言ったのです」
「へぇ」

そよぐ風の音の中、鈴のような声が震えてそんな言葉が落ちてきた。

「私は家を継ぐと言ったのに、それを考慮してくれるでもなく遠くの女学校へ入れるのだと。お前は何も知らないからと、そう断言して」

ところどころ理解のできない単語があっちゃいたが、まぁ、受け取った内容が間違うようなもんじゃないだろう。上品な人間っていうのは、使う言葉もランクが違う。そういうのをまざまざと押し付けてくる。

「私は家業の勉強がしたいというのに、女学校に入って何になるというのでしょう。女学校で花嫁修行をしてどこか釣り合う家柄の男性に家へ入って貰えれば満足なのでしょうか」

焦燥が滲む声だ。ちらりと瞼を開けてみれば、そっと静かに涙が白い頬を伝って落ちていた。光る雫がぽとりぽとりと、服へ染みを静かに作っている。おどろいた。上品な人間っていうのは、涙を流す姿さえ、上品らしい。それを眺めていると、白い指先がゆるりと動き、人差し指は涙をそっと切り弾く。何でもないことのように涙は切れ、空中へと。
ハンカチがない状態なら袖でごしごしと拭くぐらいしかないと思っていたからそれにも驚いて、ぼんやりと見続けてしまった。

「家業の勉強の前に世界を見てこいなんて、山奥の女学校で、どうすれば」

それは吐き捨てるようにではなく、本当に相手の言葉を噛み砕こうとして、どうしても出来ない、腑に落とすことが出来ないといった風情の声だった。真面目なんだろう。
それを聴きながらそっと視線を空へ戻す。見られていることにも気がつかないお嬢様。もしくは、他人に見られることに慣れ続けてしまったお嬢様、か。

そこまで考えて、何となく彼女から語られる父親殿とやらが見えたような気がした。

「親父さんの気持ち、何となくわかるぜ。……多分だけどな」

だからか何でか、つい、口に出た。出てしまった。
貴族とまではいかなくてもそれなりの身分の人間の感情がわかるだ何て今まで全く、これっぽっちも考えたことがないというのに。それでも、確かに分かると思ってしまった。それは嘘偽りのない感情と思考。

そんなオレの発言に、不思議そうな瞳が自分の方を向いているのが分かって、空を眺める視線を切るように瞼を閉じる。まるで××るように。

「……妹がいるんだ」

それは、あの雪の土地を"××出して"、初めて口にするアイツのことだった。愛しい、愛しい、その筈の、ただ一人の家族。

そんなことを口にせず、適当なことをでっちあげて煙に巻くことだって出来た。このお嬢様ならそれを信じただろう。それでも自分の口はそれを許しはしなかった。何だってんだ。そんな、真っ当なことを考えられるような、していいような人間じゃないだろ。

「まぁそれなりな環境でな。オレが親代わりで、生意気だとか口だけは達者だとかいろいろあるけど、最終的にはそいつにだけはせめて広い世界を見せてやりてえ、って思うんだよ。知らない人間にあって会話するだけでも見聞は広がるだろうさ」

そう。見せたかった。分けてやりたかった。冷たい海以外を。凍る野菜以外を。きんと冷えていない、すこし空気が遠い太陽を。あたらしい光景を見るたびに、ずきりと胸が痛む。きっと外に出たってロクでもねえだろうけど、そのロクでもない生活にだって、白以外の色を追加するぐらいはできるんじゃないかって。

そしてそれを奪ったのが他でもない自分って言うのが、笑い話で、あぁ本当に、まったく、ちっとも、笑えねえ。

「────ま、あんたみたいな上等な人間の、その親父さんの気持ちがわかるなんていったら怒られるかもしれないけどさ」

なんて、本気で考えたことを冗談目かして枕にしていた手を片方ひらひらとして投げ出せば、隣に座るお嬢様は草っぱに落とした俺の手に自分の温度を重ねてきた。

「カミュ様」

驚いて、視線をやる。苦労を知らなそうな、白い手。細い手。見たことのない、触ったことのない、きれいな肌が、俺の手を覆ってる。グローブ越しの体温は、ほのかにあたたかい。

「そうやって、冗談ながらにでもご自分を卑下するのは、その、おやめになった方がいいと、思います」

現実感が伴わない。まるでマヌーサをかけられたみたいな感覚は、一体何から発生してるんだ。

「言葉は力を持ちます。音にすれば現実に成り得ます。人によってはそれが魔法と呼ばれるモノになり、他の方に見える大きな力となるのです」

丁寧な、一語一語を確かめる様な言葉。

「だから、そんなこと、仰らないでください。少なくとも私は、お父様がそんなことを考えているかもしれないという考えには、貴方に会わなければ思い至らなかったでしょう。浅はかな私を貴方が諌めるのに、そこになんの隔たりがありましょうか」

そう言い切って未だに手を見ていたオレの視界に入って、無理矢理視線を繋いでくるお嬢────イーティの言葉には、確かに"力"が籠められていた。

オレには魔法の素養なんて上等なもんはないし、そんな自分の発言が言うほどの力を持つようには到底思えない。それでも。

燃えるような、あかい、赤い瞳。

"アイツ"と真反対のそれがどうしてもダブって見えて、心臓の辺りが痛くなって、そうなってるっていうのに今のオレにはどうしようもなかった。

だって、物心ついた時にはもう親はいなくて、バイキングに拾われて、あっちこっち行くわりにはとんだ下っ端のオレに色街に行く機会も金も殆どあるわけもなくて、つまり、だから、実のところ女なんて言うもんがオレの人生に関わって来たことなんて。そしてそれ以上に、真っ当な人間なんてもんも。

「貴方がそんなことを言うのだとしても、私にとっては貴方こそが……いえ、出過ぎた真似ですね。申し訳ありません」

謝罪と共に退く手。それが、妙に────。

「……!」

自分が何を考えたのか、何を考えてしまったのか。それに気がついて、急いで立ち上がる。駄目だ。これ以上話したら"とんでもないこと"をしでかしちまう。

「……悪い、急用を思い出した。ここから一人で帰れるか?」

フードを被って見下ろすと、少し考えた風情のお嬢様が、何かに気がついた様子で来た道の方へ視線を投げた。釣られて見てみれば、栗毛の見事な馬が装備を纏って真っ直ぐこっちへ。

「アルミダーラ」

そう呟いた彼女が立ち上がり足を庇いながら馬の方へ行くと、懐いた様子で立ち止まる。あぁ、ご主人を心配して追いかけてきたのか。賢い奴だ。

「その分なら心配ないな」
「はい。最後までありがとうございました。どうぞお気をつけて」

従馬を傍に、にこりと笑う。それがどうにもあんまりにもあんまりで、返事はせずに駆け出した。

上等な服。乱れのない言葉。どっかのお嬢様学校に入れたがる親。馬を横に置いて様になる姿。どうせとっくに読み書き計算だって出来るんだろう。きれいな横顔。醜いもんが、悪いもんが、この世にあることを知らなそうな、考え。

持久力が大してあるわけでもないのに街を横目に湿原の方まで駆けぬけちまって、息が荒いだところでようやく脚が止まった。ぜぇはぁと荒いだ呼吸の中で思い出すのは一人の温度。

「……ちっきしょう」

まさかそんなことあるわけがない。
あっていい筈がない。

────あの手を握り返したかっただなんてそんなの。

赦されるはずが、ないんだ。





これは、世界にとっては取るに足らない一枝の物語。
けれど、二枚の葉にとっては運命が重なる物語。