「危ねぇ、マスター!」

少し、野暮用があってレイシフト先の森を歩いている時、そんな声がしたかどうかという瞬間、私は暗闇の中に引っ張り込まれた。さっきの声からするに、ロビンフッドが何か気配を察知して私を外套の中に入れてくれたのだろう。見た目よりもなかなかに空間の広いそこは、やはり宝具と言うことなのだろう。しかし決して離れられるほど場所があるわけではなく、私の肩に手は回っているし体は密着している。

そんなことを考えている鼻先をすんと通って行くのは、私の知らない煙草の香り。いや、そもそも私は喫煙家でも好煙家でもないから知っている煙草の種類と言うのは恐ろしく少ない。故にそんなこと言うべきことではないのかもしれない。ことこの緑の狩人は自作で作成している節さえある。

そうして、一頭の獣が。なるほど、ずいぶん遠くからあれを察知してくれたらしい。私と言う足手まといがいる以上、やり過ごすのが正解と言えるだろう。

「悪いな、ちっと我慢しててくれ」
「ううん、別にいいよ。というかありがと」

私は殺気というモノが分からない。いや、対峙したり、霊廟の中に入って圧を感じるということはあるが、死角から襲われたり、何十メートルと離れているそれを察知するのは無理難題だ。足音に気が付いた時には死んでいることだろう。だから、私はこれが嫌だとは思わない。それを厭うことは、私の命を守ろうとしてくれる彼らに対して失礼だ。

そう、思うのだけれど。

レイシフトから帰って来て見たのは、私の部屋で寛いでいるエドモン・ダンテスだった。曰く、ライターがないから帰ってくるのを待っていた、だそうだ。この男はそういうところがある。言語化はしにくいのだけれど、うん、そういうところがある。

「はいはい、もー」

ごそりとポケットから出して近付いた、ところで、私の視界は反転する。

「────」

一瞬何が起きたのか、いや今でも何が起きたのか頭が理解してくれない。影が落ちてる。目の前にはエドモンがいる。彼の背中には白く光る天井があって、縁から見えるそれが僅かに眩しい。いきなり位置が変わると、こうも頭が付いて行かないのだということと、案外この男が他人を流動的に動かせる器用さを持っていることに驚いた。

「え、ちょ」

眉間に皺を寄せたエドモンは私の首筋に鼻先を埋めてくる。驚いて抵抗しようとしたのに、手首がいつの間にか拘束されていてこれまた驚くしかない。この数秒間で私は何度驚けばいいのだ。まったく!

「誰の」
「ん?」
「誰の、臭いだ」

────それはおそろしく、低い声だった。

地を這う影からいずる蛇のような。ぞっと背筋を凍らせることを厭わない、神経を破壊するような声。あぁ、そうか。こんな声も出せるのだ、この男は。恩讐の彼方へと言うにふさわしい。情愛と、怨恨。光と闇を合わせた先に行くのだという。つまりは、闇の人。

どうして忘れていたのだろう。
どうして忘れていられたのだろう。

彼は、復讐者なのだ。

「えど、もん」

私が何とか彼の名前を呼ぶと、つまらなさそうに彼は私の上から退いて、自分の懐から銀色のライターを出して煙草に火を。私の手には、体温がとうに移ってしまった銀色の塊が未だあるのに。

なんだ、持ってるじゃない。そんな軽口を叩くことすら出来ず、可能だったのは自分の身体を起こすことだけだった。

「……」

彼が何に怒ったのかは、わかる。そこまで愚鈍じゃない筈だ。たぶん当たっている。でも、それを謝罪するのは、マスターとしての矜持が赦さない。私にだって譲れないことはある。

怒るというのなら、嫉妬すると言うのなら、もっとハッキリ言えばいいと言うのに。俺の女だと。俺以外の煙草のにおいをさせるなと。それでもこの男は言わない。言えないのかもしれない。口にしてしまえばどうなるのかわからないからか。

「おい」

硬い声に誘われ、顔を上げる。先程より幾分か減った眉間のしわは、それでもしっかと刻まれている。まぁきっと私の眉間にも刻まれているのだろうからさしたる問題ではないか。うん。

どうしたのかと視線で問えば、普段点けっぱなしの手袋を、ゆっくりと取る。いきなりのことに疑問符を零した瞬間、掌が顎に。親指が口の端に。

「強く噛みすぎだ」

言われて、自覚する。唇の端っこを強く強く噛みつけていたことに。……いや、誰のせいだ。誰の。

「俺のせいか」

口に出していない私の抗議を受け止めた男は、ふん、とすこしだけ私の唇をさすって離れて行った。

「今度遠出をする際は俺を連れていけ。それで十分だろう」
「……いや、それは」
「力不足だとでも?」
「今回は、ロビンフッドしか知らない場所だったんだよ」

溜息をついて、引っ張られた時に落としてしまった花をベッドの下から拾い上げる。前に何かの折で貰ったのを思い出して見せたいと感じた。私が命を貰うのだから、持ってきてもらうのではなくて私の手で手折るのが礼儀だと思ったのだ。

差し出すと、珍しく面食らったという表情だと言うのに素直に手にしてくれて、そんな仕草に、あぁこの人が愛おしいと思ってしまうのだからもうどうしようもない。

「君はさ、世界の何もかもを嫌っているというけれど、私は好きだよ。花は綺麗だし、木陰は気持ちいいし、ご飯は美味しいし、何より、逢えたもの」

この流れで明言するのは無粋というモノだ。

「ほう。では、誰に、と問おう」

だというのに、この男は。自分は言わないくせに、人には言わせようとする。問おうとする。そういうところが!ほんと、そういうところが!

「……わかってるくせに」
「さぁな」

あまりにも目を眇めて楽しそうに笑うものだから、一矢報いてやろうと思うのも致し方のないことだと思う。だから。

「決まっているでしょう。アヴェンジャーであっても闇と光の果てに至ろうとする、巌窟王、エドモン・ダンテス、君にだよ」

立ち膝を進め、肩に肘を置いて抱きしめるように言う。心臓の音は聴こえてしまうかもしれないけれど、まぁいい。

「なるほど、確かに……悪くはない」

それが彼なりの最大限の賛辞だと言うのを、私は知っている。
エドモン・ダンテス的には、ジッポを渡したことで「お前は俺の女だ」って言ったつもりなんですよ、という補足。補足ばっかりかこのシリーズ。