「何を怒っているんだ」

きんと張り詰めた空気の中、背後からそんな声が掛けられる。けれど私は返事をしない。今日という今日はこの男を甘やかすことを止めたのだ。

「千里眼持ちだとでも思っているのか」

その言葉はやはり無視をして、はぁと息を吐くと白く可視化されるどころか、しゅわっと微かな音が聴こえる。それはここがどれだけ寒いのかということを教えてくれているようなものだ。一定気温を下回ると吐息でさえ瞬間的に塊、音を出すとは誰に教わったのだったか。

「マス……いや、トウカ

聴き慣れない音に、私はようやく振り向いた。見れば普段の外套姿の彼がそこに居て、私のマフラーを持っていた。けれど私の首にはマシュが編んでくれたものがもう収まっていて、エドモンが持ってきたマフラーが結ばれる場所などない。

「見ているだけで寒さを覚えるほどだ」
「寒さなんて感じないくせに」

それはあなたが英霊だと、突き放す言葉。そうわかっているのに私は口に出してしまった。

「あぁ、しかし感情というモノを無くしているわけでもない。それを無くしていたら、今頃俺はここにいないだろう」

相も変わらずの独特の笑い声を落としながらざくざくと雪を歩いてきて、ぎゅっと私の首にそれを巻いてくる。見るだけでマフラーを巻いていて巻けるような場所などないというのにこの男は。若干雪がちらついていて冷たいと言うのは無粋なのだろう。

「……怒ってる」
「だろうな」
「何で怒ってるのかわかってるの」
「さぁ、とんとわからん」

そう言いながら、言いながらも、男は細い葉巻を口に銜える。けれどそれだけ。火の気を持つ気など更々ないといった風情でこちらを見ている。

白く雪のような髪の隙間から覗く紅い瞳は、心臓に悪い。千里眼を持ってなどいないとは言うが、しかしこの男は分かっていてそれをするのだ。私が弱いと知っていて。それでいてわからないと嘯く。

「……」

溜息を、明らかな溜息を吐いて、私は懐から銀色を取り出した。こうも怒っているというのに、これを肌身離さず持ち歩いているというのだから、私の怒りの程度も知れよう。ゆらりと炎に揺れる顔はひどく整っているからタチが悪い。

「気が利くな」
「どーも」

カチンとふたを閉め、くゆらされる煙の行く先を見る。星空。山の上は空気が澄んでいるから、星がきれいに見えるとは知識では知っていたけれど、実感したのはここに来てから……人理を修復し終えてからだ。

「きれい」

思わず、言葉が落ちた。

きっと、人生の中で三本の指には入る空だった。一番はマシュと見たあの朝日だから、それはもう仕方のない事なのだけれど、これはそれに迫っている。

「あぁ、そうだな」

香りを仄かに楽しんだのか、かしゃん、とシガーカッターの音と共に後ろから声がかかる。

コートに身を包み、マフラーを二本巻いている私の身体の前を緑色が覆い込んだ。ふわりと包まれる香りから察するに、どうやら外套に招かれてしまったらしい。どうしたものだかと思案しはしたけれど、まぁいいかと多少体を預けたら小さな笑い声。

「それにしても可愛らしいことだ」
「うるさい」
「いや、俺は言うぞ。何たってお前が、あぁお前が妬み嫉みの炎を灯すとは思ってもいなかった」

くつくつと本当に何が楽しいのかわからないレベルの笑い声を遠慮なくこぼしてくるものだから、下ろした腕で軽く男の腿を叩く。

つまりはこうだ。私と部屋で休んでいる時に、この男が自分のマッチで煙草に火を点けたのだ。ただそれだけ。本当にそれだけ。別に加えてプリンを食べられたとかそう言う少女漫画的展開ではない。でもくだらなさはそれ以上だろう。わかってる。そんなことは自分が一番わかってる。かわいくないこともわかってる。

「……だって、言ったのに」
「そうだな。それに関しては非礼を詫びよう。すまなかった」

こつりと頭の上に、つむじに顎が乗せられて、それまでは半紙一枚程度の距離はあったのに、もう、それもなくなった。

別に、そう別に端女なりたいわけじゃない。そんなものになるつもりはさらさらない。それでも、この男の『焔』を預けられたと思っていた。そう思いあがっていただけの話だ。

────けれど焔と言うのは、人類の歴史を鑑みて命の象徴だ。そうでなくとも、相手が相手なだけに少し深く考えてしまうのもやむなしだと思いたい。

「いいよ」
「いいと思ってる声か、それが」
「いいの。本当に」

別にもう怒ってない。それは本当。

「だってこうでもなかったら、君と夜にこんなところまで出てくること、なかったろうし」

見上げる空はあまりにもきれい。山の上と言うのは本当に空気が澄んでいる。けれど、乙女チックなことが赦されるならば、傍に彼がいるからということも、もしかしたらあるのかもしれない。

「あーあ、何でこんなことになっちゃんだろうなぁ」

星空はきれいで、傍にこの人がいて、満たされているのに。強欲だ。とてつもなく。

「情動を抑圧しているからだ。解放した方が身のためだと思うが?」
「遠慮しておきます」
「つまらん奴だ」
「そのつまらん奴をマスターにしたのはどこのどいつさんでしょうねー」

くだらない軽口をたたきながら、自分の手で外套の前を閉める。必然、エドモンのに添えることになってしまうわけで。

「……」
「……」
「……」

沈黙が痛い。リアクションも辛いけれどノーリアクションも辛い。どっちにしろ辛い。わがままにもほどがあろう、自分。

「星が綺麗だな」

ぽつり、言葉。

それはどういう意味なのか。
問おうとして、口をつぐむ。それがどういった意味でも、少なくともきれいな風景に私がいて、彼の感情に泥を混ぜることになってはいないと言うそれだけでも、私には意味がある。

「そう。それは、良かった」

私たちは決定的なことを言わない。それがどういった結果を招くのか今はまだわからないけれど、それでも貴方がいてくれるこの時間を大切にしたいのだ。

どこまでもきれいなこの空を、私が忘れることは、ないだろう。

「ねー、エドモン」
「どうした」
「今日も一緒に寝てくれる?」
「当然のことを何故訊く」
「別に。確認したかっただけ」
「そうか。あぁ、そうだな」
気が向いたらかくリクエスト【銀色絆で星空観賞】

本当に単純に寝台で眠るだけの二人。そういう関係。
リクエストありがとうございました。