これは、とても薄く、儚い、しかし確かに存在していた恋のお話。
"彼"がその一生を終えるまでの、ささやかなひととき。
アンリアル
「おはようございます、ガンマ2号さん!」
「ん、ああ、おはよーさん」

早朝。
まだ誰も基地内を歩いていないような時間、聴こえてくるのは昼夜問わず稼働している機械だけのような静寂の中、後ろから駆けてきたちいさな影はゆっくりと歩くガンマ2号を追い抜かしながら挨拶をしていきました。作業用のキャップを被って、白い服を着たその人影をガンマ2号は見たことがありません。
しかし白い服が彼の演算機構で導き出されたものであるのならそれも無理はなく、特段変なことではないと判断しました。
だってそれは、どこからどう見てもコックコートだったからです。

けれどその日から彼の周囲に変化が現れました。
毎日早朝にその小さな影を見るようになったのです。

いつもいつも小走りに自分の横を駆けていくのを見送るのにも飽きた頃、通り過ぎる一瞬を捉えてその襟を指先で停めました。人造人間であるガンマ2号にとって特段技能を使うようなことではありませんでしたが、ただの人間であるそのちいさな影────コックコートの少女にとっては驚くべきことでした。

「がっ、がんま、2号、さん……?」
「あのさー、なんで2号までわざわざ言うの?」

首が絞まるような引き留め方をしておいて質問の内容がそれ。
しかし彼が不思議に思うのも無理はないのです。だって彼は基地内の人たちからは「ガンマさん」と親しみと畏怖を込めて呼ばれていたのですから。人の噂がようくようく集まる食堂で日頃働いている彼女ならそれを知らないはずもなく、事実そう呼ばれていることは彼女も知っていました。

襟首を掴まれあわれな小動物となった彼女は、小首を傾げるガンマ2号の視線に晒されたまま、ぐにゃりと表情を歪めます。そんな顔をされる謂れはないガンマ2号はパッと指を離して床に落としてそのちいさき命を眺めました。
そうして暫くそのままふたつの影はとまったまま。

どれほど時間が経ったでしょう。案外と時間は経っていなかったのかもしれませんが、たとえ数十秒であれ無駄な時間を過ごしたことには変わりありません。それでも、ガンマ2号は不思議とその場から離れようとは思いませんでした。

「だ、だって、それだと……ガンマ1号さんと同じになっちゃう、じゃ、ない、ですか」

ふるえる声で告げられた理由は通常であれば、なあんだ、と言いたくなるようなものです。
ガンマ2号だって気にしてはいませんでした。1号と2号をわざわざ識別する必要なんてDr.ヘドとお互い以外なかったからです。
それでもコックコートの少女はさもそれが大事なことのように言いました。

「ねえ、君、名前は?」

ガンマ2号は視線を合わせるようにしゃがみ、その青いマントが地面について汚れそうになっても気にした風情はなく。レッドリボン軍の総帥であるマゼンタが連れてきた超天才科学者、Dr.ヘドの創り出した人造人間ははじめて、人間に名前を訊ねたのです。

「……イダナ、です。炊事場で働いている、イダナと申します」
イダナイダナ……うん、おぼえたよ」

突拍子もない質問に目を白黒させながらもしっかり受け答えをした彼女へにこりと笑い、ガンマ2号は手を差し出しておずおずと重ねられたちいさな手を引っ張りいとも簡単に立ち上がらせました。

それが彼らの出会いでした。




朝の短い時間、初めて出会った場所から炊事場の扉の前まで。
ゆっくりと歩きながら二人は静かな時間を過ごしていきました。なかなかにお調子者であるガンマ2号もこの時だけはとても穏やかな表情をしていたのですが、それの差異を知る者はその場にいませんでした。

お互い話すのは博士のことか炊事場のことで、過去のことは話しません。ガンマ2号には語る過去はなく、イダナには語る理由がなかったからです。それでも特に困りません。二人とも人生経験が乏しく、そこに興味が向かなかったのは不幸中の幸いだった、のかもしれません。
だって彼女の過去のことを知ったら、ヒーローである彼はその背景を滅そうと動いてしまったかもしれないのですから。

そんなある日、珍しく食堂にガンマ2号が顔を出しました。
お昼時の戦争のような喧騒も一先ず鎮まり、厨房の奥で静かに賄い飯を食べていたイダナは慌てて飲み込もうとして胸を叩きながら、膝においていた銀色のプレートを一旦適当なところへ置いてカウンター外のガンマ2号に駆け寄ります。

「どうしたんですか、ガンマ2号さん」
「ああ、いや、ちょっと……顔が見たくて」

それを目撃したのは炊事場の仲間たちと、シフトの都合上通常より遅れて昼食を食べていた兵士たちだけでした。それでも誰もがその二人の表情についてお互い目配せをして、見なかったことにしました。暗黙の不可侵条約を結んだということです。

つまり。いつの間にか食堂で働くようになり兵士たちの間ではにわかに妹のような扱いをされていたちいさなちいさな存在を任せるには、ガンマ2号は(たとえ少々ノリが軽かろうとも)ヒーローという概念を埋め込まれている以上裏切りはしないだろうと、そう。
別にホワイトであるわけでもないこの組織の中で、そんな平和な話題がひとつくらいあってもいいだろう、と言い出したのは一体誰だったのでしょう。




「ガンマ2号さんは、空が飛べるんですね」
「そうだよ」

朝に続いて、昼と夜の境目のほんの少しの休憩時間も、ガンマ2号とイダナは共に過ごすようになりました。お互いの仕事を疎かにせず、だけど徐々に徐々に心を預けあっていくその様子は、基地の中でもひっそりと応援されていたりもしました。

「そうだ、気になるなら連れて行ってあげるよ」
「へっ」

軽々と片腕にイダナを抱き上げ、何を言う暇もなくガンマ2号はそのまま食堂からあっという間に姿を消します。残された兵士たちと炊事場の人々は顔を見合わせ、何かを噛み締めるようにしながら口を開きました。

「……イダナちゃん、明らかにガンマさんのこと好きだよなあ」
「いやガンマさんもガンマさんでイダナちゃんのこと好きだろう」
「いやー、わかりにくいようでわかりやすいっスよねえ」
「でも二人がそれに気が付いているかって言うと」
「「「それなあ」」」

基地へ来る前はどこにいたのやらという少々世間と周囲に疎い少女と、人間の機微がわからない人造人間。見守ることを決めたとはいえ、心配になるのも無理からぬ話です。
そもそも年齢を鑑みると基地へ登用されるには彼女はすこし異質でした。

「だとしても、イダナがしあわせならそれでいいさ」

まるで保護者のような言葉を呟く炊事長に同意のために頷く彼らは、二人のことに思いを馳せながらもおのおの自分の持ち場へ戻っていきました。




視点を戻して、ガンマ2号とその腕に抱えられたイダナです。
ガンマ2号の腕に腰掛けるような形でしっかりと抱き止められながら首に両腕を回したまま食堂の外へ出て、廊下を走り、外へ出たところで目を閉じるように要請され、十秒ほど。

「目、開けてもいいよ」

風を切る音が止まったところで言葉の通りにイダナが瞼を上げ光を瞳の中へ誘うと。

「────わぁっ」

基地を見渡せるほどの高さ。彼女がガンマ2号に出会わず生きていたら絶対に見ることはなかった景色が眼下に広がっていたのです。

「すごい……! すごいすごい!」

きゃっきゃと、これほどまでに感情を露わにするイダナを見るのはガンマ2号も初めてなほど彼女は顔を綻ばせていました。その表情に、身体のどこか、奥底の底がぎゅうっとなる感覚に、ガンマ2号は内心で首を傾げます。

「ありがとうございます、ガンマ2号さん」

それでも、イダナの言葉と無邪気な表情にその違和感への疑問は足を生やしてどこかに行ってしまいました。それを"とある感情"だと理解するには、お互い幼すぎたのです。




「最近どこに行っているんだ?」
「……人間観察?」

1号に問いかけられ、己の感情にまだ気がついていない2号は首を傾げながらそう答えます。
周囲から見たらどう考えたって、という話なのですが、当人が自覚しなければ意味がありません。……そもそも、その感情を解するのかどうかも多少あやしいところではありますが、あるものはあるのだから仕方がないのです。

イダナという人間一人をか?」
「わかってるなら聞かなくていいじゃないか」

ガンマ1号とガンマ2号はとても高機能な人造人間で、早朝の仕事も特に何かプログラムを組まれたから行っているのではなく、必要だからと個々の演算機能によって導き出されたもので、つまりドクターからの命令ではありません。
決められたスケジュールは多々あれどその合間を縫った時間は自由行動となっており、その自由時間も哨戒に充てていただけで1号に責められる理由は、一応ありません。とはいえ相棒の奇妙な行動を問い詰めるには十分な要素でした。

「彼女のことなら施設内部のシステムにアクセスすれば全部わかるんじゃないか?」
「それも考えたけど……ヒーローの行いじゃないかな、って」

システムへの権限はある程度譲渡されている二体は警備の都合上、施設にいる人間のデータにはほぼ無制限にアクセスが可能です。それでもガンマ2号はそれを是とはしませんでした。

「それもそうだな」

ガンマ1号もその言葉に納得し彼女の背景を(どうでもいいと判断したこともあって)調べることはしなかったのです。
イダナがここに来る前に共にいた人間たちは、またもや命拾いをしました。

それでは、ここからすこしだけ。
ガンマ2号が知らない……いえ、知り得ない彼女の話をしましょう。

彼女は辺境のとある家庭に産まれた次女でした。
無論名前は出生時に登録されていましたが、しかし彼女のことをそれで呼ぶ人間はおらず、ただただ『ニゴウ』と呼ばれていました。固有識別名などどうでもよく、また、それで誰も困らなかったのです。彼女本人でさえも。
名前なんてものはコミュニティ内で『何』であるのか判別出来ればさほど困りはしません。故に、彼女がニゴウと呼ばれようとも構いませんでした。だから彼女は自分の戸籍名を今でも知らず、またこれからも知ることはないでしょう。

そんな自覚のない不和のなか生きていた彼女は、ある日生活費に困った一家にとうとう売り払われ、街にいなくても不審に思われない身柄というのは案外調達するのが難しいと拾われたのがレッドリボン軍の炊事場でした。それは彼女にとって人生最大の幸運といってもよかったと思います。
殴られず、身体を暴かれず、お腹が空きすぎることもなく、ちょっと……いえだいぶぺたんこではあるけれど何に怯えることもなく自分だけの寝台の上で夜を過ごせるなど、まるで楽園に来たかのようで。

そして何より、炊事長から名を問われて『ニゴウ』と告げたとき、枯れ木のような手足と合わせていろいろなことを理解し哀れに思った炊事長は、彼女に名前を与えました。
別に彼女は『ニゴウ』と呼ばれることが悲しくはありませんでした。誰もがそう彼女を呼んでいたからです。しかし、「君は今日からイダナと名乗りなさい」とやさしい声音で頭を撫でられたとき、嫌では、ないと思いました。
呼び名が変わるだなんて不便極まりないのに。反応が遅れてしまうのに。それでも彼女は、この世界で二つ目の自分だけのものを貰いました。

……いえ、もしかしたら、炊事長から与えられたその名前こそが、彼女の人生の中ではじめての彼女だけのものだったのかもしれません。
だって、彼女の命は彼女だけのものではありませんでしたから。

そうして、あくる日もあくる日も、朝早く起きて大勢の人たちの食事の準備をして、忙しい部隊には食事を届けて、帰ってきたらすぐにお皿を食洗機にかけて、合間に厨房含む食堂をピカピカに磨き上げて、そうしてまた食事の準備をして。
朝は早く夜は遅くまで、そんなサイクルを繰り返していました。休日などほとんどなく、水仕事で手指は荒れ、時には火傷もして、へとへとになるような日々をずうっと。
だけど彼女にとってそれはへいちゃらだったのです。昔よりずっとご飯をもらって、肉が多少ついた短い手足を懸命に動かして、食堂を、基地内を、走り回っていました。




そんなある日、彼女に転機が訪れます。
全天候型のドームの中、社長か博士の趣味で雷鳴が轟き雨が降っていたその日、食事を届けた帰りに基地の渡り廊下からぱたぱたと小走りに戻っていた時。二つの影を見ました。
その影は型の応酬のように空中で組み手をしており、戦闘用人造人間としては児戯に等しいものだったのです。しかし闘いというものを見たことがなかった彼女は、驚いて足を止めました。

雨の中でぶつかり合う赤と青の影。
彼女の動体視力で到底追い切れるものではありませんでしたが、それでも目を奪われたことに違いありません。

「2号、すこし注意が足りないんじゃないか?」

赤の影が、青の影に対して嗜めるようにそう言いました。それを受けて、青の影はにやりと不敵に、雄々しく笑ったのです。雨に濡れ、雷に照らされ、胸の中央には大きく『2』と書かれているその存在。
そう、超天才科学者Dr.ヘドによって創り出されたガンマ2号です。

「言ってなよ。すーぐに吹っ飛ばしてあげるから!」

『ニゴウ』。自分がかつて呼ばれていたものと同じだというのに、イダナにはとても同じには到底思えませんでした。それほどまでに彼女は────自分でも理解が及ばないほどに、その一瞬で彼に心を奪われていたのです。

しかしずっと見ていたいという思いと裏腹に、仕事の時間は待ってはくれません。
後ろ髪が引かれる思いで、急ぎ厨房へと戻っていきました。




かたや炊事場の人間。かたや人造人間。
人造人間は食事を取りません。接点などあるわけもなく、しかしどれだけ食事を届けてもあの日のような組み手がまた見られることもなく、ただただ日々は過ぎていきました。

けれどそんな彼女を運命は哀れに思ったのか、目覚ましより一時間も早く起きてしまう日があったのです。一時間。二度寝するには睡眠が深くなりすぎて、起きるにはまだ早い。でも、彼女は起きることを選択しました。散歩でもしながらゆっくり食堂に向かって、いつもよりピカピカに食堂を磨こうと思ったのです。

寮の寝台から降り、静かに着替えて、朝のしじまの中へそっと抜け出すように。
すると、長い廊下の向こう。すこし赤みがかかった黄色い服に青いマントを身につけた影が歩いていました。人造人間に昼夜は関係ありません。博士がいるこの施設を守るのも、ある意味で彼らの仕事の範疇でした。つまり彼のルーチンワークのひとつです。
しかしそんなことを知らない彼女はいきなり憧れの人を前にして、歩みは一瞬だけ緩み、けれども次の瞬間小走りに。その横を駆けるようにして、なんでもない風を装って。

「おはようございます、ガンマ2号さん!」
「ん、ああ、おはよーさん」

なんでもない挨拶。取るに足らない日常の風景。勇気を振り絞り、誰も聞いたことがないような声量だったとしてもそんなことをその時のガンマ2号は知り得ることはありません。

そんな三秒にも満たない交流は、それでも、彼女の世界を密かに彩ったのです。
誰にも知られない世界の片隅で。

そんな平和な日々の中、計画が動き始めます。
計画の初動としてちいさなちいさな女の子を誘拐することに対し、Dr.ヘドとガンマたちは異論を唱えました。しかしマゼンタという男は雇われ科学者とその配下に耳を傾けるような存在ではなかったのです。

────この基地が、数時間もしないうちに戦場になる。
それを理解したガンマ2号は炊事長に、万が一の時はシェルターへすぐ逃げ込むよう伝えておきました。
それは正午をすこしすぎた辺りで、厨房はいまだ戦場の様相を呈していて。だから厨房の中にいるイダナへガンマ2号は軽く手を振るるだけにとどめ、イダナもちいさくそれに応えるだけだったのです。

まさかそれが平和の最期だったなど、誰も思いませんでした。




そうして暫く後に大地が鳴動し始め、地響きが起き、慌てた炊事長に抱えられるようにしてイダナは多くの非戦闘員と共にドームの地下にあるシェルターへ逃げ込みました。

「ガンマさんたちが戦ってくれているから、おとなしくしているんだよ」

そんな炊事長の言葉にひどく胸が締め付けられるような思いを抱えながらイダナは、どれほどつよく、ながく、炊事長の腕の中で縮こまっていたことでしょう。誰にもわかりません。
しかしある時を境に恐ろしい震動はまるで嘘だったかのように鳴りを潜め、シェルターは幸運にもセルマックスの攻撃を受けることもなくしっかと耐えきりました。

「────っ」

戦いが終わった。
それを理解したイダナは周囲の安全確認も出来ていないというのに、レッドリボン軍に来てから随分と健康になった肢体でこれでもかと急いで目的の場所────地上へと。いつの間にか勝手知ったる土地になっていた軍の基地は跡形もなく、記憶の中にある道に意味などなく、瓦礫に足を取られながらも戦闘の中心地へイダナは駆けていきます。
ちいさな手足を懸命に振り切って。




そうして、彼女は横たわる影を見ました。Dr.ヘドの横にいるその薄汚れた塊を、しかし彼女が見誤ることはありません。凍りつく心臓を叱咤しながら、無様にも転がり落ちるようにクレーターの内側の端っこへ。崩れるようにイダナが膝をついた時、ほんの僅かに、ガンマ2号の瞼が動きます。

「……ああ、どく、たー、と、い、だな、も、ぶじで、よ……か……」

本来、もう稼働する筈のない一瞬でした。それでも、それだけは確認するかのように笑って、静かに生涯を閉じたのです。

「がんま、にごう、さん……?」

戦慄く声で名前を問いかけても、もう彼の目が開くことはありません。それどころか、世界へ溶けていくように、彼の身体は光の破片となって消えていきます。イダナがどれだけその破片へ手を伸ばしても指の隙間からそれらはこぼれ落ち、止まることもなく、最後には煤けた青いマントの一欠片だけが残されました。

結局のところ、ガンマ2号が彼女への想いを自覚することはありませんでした。
同時に、彼女も己の感情がどういったものであるのか、どういった名前が付けられているものなのか、知りませんでした。
その感情の名前を知るには、彼らが過ごした日々はあまりにも短すぎたのです。




けれどそうであったとしてもこれは、人造人間である彼の、最初で最後の、確かな恋でした。




end.