人間の決定的な転機というのは、おおよそいつか訪れる。

それは例えば結婚であったり、
それは例えば愛しい人との死別であったり、
それは例えば同僚数百人が一瞬で死ぬ出来事であったり、
それは例えば少年が人理を救う偉業を成し遂げたことであったり、

そんなようなことだと思っていた。

つまり、まさかあんなことがそれに該当するだなんてあの瞬間の自分は全く理解していなかったのだ。当たり前だといえば当たり前だとは思うのだけれど、それに理解と納得が追いつくかというとまた別の話だろうと思う。
─ 蒼炎は鎮魂を ─
シンディさーん」

朝のブリーフィングが終わり、さて今日も細かいタスクと大きなタスクの優先順位をつけながら仕事をこなしていこう、といつも持っているクリップボードへ視線を落としたところで、フジマルさんの声が聴こえる。どうしたのだろう、と顔を上げたところで ぬっ と影が前へと立ちはだかった。

「────っ、と」

一歩後ろへよろめきはしたけれど、すんでのところで転けるような無様な姿は見せずに済んだ。大人の面子を保てただろうか。そんなことを考える自分を見下ろすのは、通称"山の翁"と呼ばれるサーヴァントだというのは飲み込めた。山の翁、という称号を冠するサーヴァントは他にもいるが、それを固有名詞として通じさせているのはたった一騎のみ。
こんなにはっきりと姿を捉えられたのは初めてのことだ。

「汝は」

地の底から這うような、震え朧げながらもしっかと届く声は、確かな指向性を持って自分に達する。それは、紛れもない会話の開始。自分はこの方に何かしただろうか。いや、まさか何もしなかったのだろうか。だから来たとか。キャメロットやバビロニアをモニタリングしていた限りそのような理不尽を行使する方ではないと思っていたが。

「一体何に触れたのだ」

がつりと掴まれ、眼前へ持ってこられた指先は、しかし僅かながら透き通っていた。




曰く、"山の翁"殿の言はこうだ。
ほんの昨日、廊下で私とすれ違った時に存在の揺らぎを感じたと。生者の近くでは有り得ざるゆらめき、闇、死への肉薄。しかしそれはあまりにも微かすぎたが故にそのままにしたが、死との距離が近い者が当たり前のようにいるのは契約者の命を縮めることに他ならないと。だからこの少ない全職員が集まるブリーフィングを見ることにしたのだと(つまり自分含めて職員を個人認識していなかった、ということだ)(別にそれは悲しむことではない)。

「同盟者に呼ばれ来ましたが、これは……」

そうして、私はいまとある器物を抱えて目の前にニトクリス様を眼前に認めることに陥っている。"山の翁"殿とはまた異なる、『死の概念』と共にある方。

「まったく、一体何をしたらこんなことになるのですか」
「迂闊であったことは間違いないであろうな」

そう口々に怒られる。何をしたと言っても、私は自分の仕事をしていただけなのだ。

────ゴーストランタン。
それは魂を油にし燃え続ける、幽世の素材。丸いランタンの中でちろちろと青い炎がガラス肌を舐めている。
魂が燃料ということはそれが無くなれば消えるということ。しかし魂という燃料は恐ろしく燃費がいい。だからこそ素材保管庫であっても燃え続けていたのだが、何らかのバランスが崩れ、消え、保管箱から落ちたランタンを私が触ってしまったのが原因だと。たしかに整理のために部屋に入り消灯したランタンを認識して、落ちた衝撃で消えたのかと慌て手に取った時には既に青い炎で満たされていた。故にただの勘違いだったのだとそのまま保管箱へ戻した。
けれど、"山の翁"殿に詰め寄られ、思い出すことはないかと問われ、改めてその保管箱を引き出した時、すぅっと目を引かれたのがいま自分が抱えるランタンだった。どうしようもなく間違えようもないほど、"これ"が半身であるという認識が頭を殴ってくる。

「取り敢えず、私たちで貴方の魂の加護を強くしましょう。全てがランタンに吸収されてしまわないように」

そう語りかけてくれるニトクリス様は、私のことを人間だという。迂闊にも魂を半分落としてしまった愚か者であるというのに、それでも亡霊ではなく、2017年を生きる生者だと。彼女が大切にする彼の隣で同じ時間を走ることが出来るのだと。

「だから生きるのです。それは貴方たちだけに許された行いなのですから」

ふわりと笑って下さって、私はその加護を得た。

シンディさんはミネストローネにしたんだ」
「はい、スープ系大好きで」
「俺はやっぱ肉だなぁ。エミヤが作ってくれる生姜焼きと米最高」
「先輩の食べっぷりは気持ちがいいとこの間言ってらっしゃいましたよ」

あれから、私はお昼とかに時間が合えばフジマルさんやマシュと食べるようになった。こうして彼らと一緒に食事をしていると周りにいろんな人が集まってきて、周囲に人が絶えない。これが彼の為し続けた結果なのだろうと思う。英霊をサーヴァント(従僕)とせず、仲間と当たり前のように接してきたことの。

フジマルさんという紹介者を通して、私は強大な力を持つ英霊の方々と触れあう機会を得る。それはお伽話のようだった。私のような数多の魔術師に隠れ埋もれる人間が、『こうあれかし』と望まれクラスに落とし込まれ情報を削がれた状態だったとしても、奇跡に触れ会話が出来るなど、想像だにしていなかった。いや、こんな狭い空間でむしろそうであっていた自分の方がおかしいのかもしれない。
だって顔を上げて見渡してみれば、他の職員と楽しそうにしている英霊の方々の姿を捉えることが出来るのだから。私は世界から目を背けていたのだ。ランタンに魂を取られてしまうのも仕方がなかったのかもしれない。




肌身離さず腰から下げたランタンは今も私の魂を燃やして輝いている。
夜、その灯りを見るとすこしだけ闇の中に何かを見出してしまいそうになって、私は笑いながら腰に再度下げて自室を抜け出した。

夜のカルデアはとても静かだ。数少ない生者は眠り、眠りを必要としない英霊の方々はしかし生者の生活サイクルに合わせ存在ひそめる(中にはサイクルに合わせて眠っている人もいるらしい)(そちらの方が魔力消費がないし良いのだとか)。

「眠れないのか」

珍しく雲が晴れ月明かりで照らされる窓の縁に座り込んで雪の山々を眺めていると、影の中から ぬっ と"山の翁"殿が声とともに現れる。最初は驚いてもいたけれど、最近はむしろその影と声で心が凪ぐほどだ。あぁ、はっきりと姿が見える。

「はい、どうやら睡眠が必要なくなってきているようで」

私の魂は御二方の加護によって守られている。食事によって生命エネルギーを供給している。縁を作ることによって魂を繋ぎ止めるアンカーを強固にし続けている。それでも。ランタンが燃え続ける限り消費はされていく。消費がされるということは歩んでいくということ。

「完全にヒトで無くなるのも近いかもしれませんね」

そう言葉を落とすと、縁の反対側に"山の翁"殿は腰を下ろす。黒い外套が白い光に照らされ、とてもきれい。大理石のような、骨のような、粉っぽい白さが際立つ仮面に影が落ち、その闇に想いを馳せる。お優しい方だ。

「"山の翁"殿」
「如何した」
「私の魂を守り続けてくださり、ありがとうございます」

かしゃん、と腰につけていたランタンを外し目の前に差し出す。あいも変わらず炎はガラスを舐め続けているけれど、ようく、ようく目を凝らしてみると青い炎の青さにも種類がある。保管庫の他のランタンと比べてみれば一目瞭然だろう(といってもわかる人間なんか私だけだろうけれど)。
私の体にかけられている加護とはまた別の祝福だ。なんせこれは魂に直接干渉している。

「この一番外側の蒼い炎は"山の翁"殿のものですよね」

燃料として零れるのを最小限にするための膜のような炎。その炎を私は知っている。仮面の奥、実体を持たぬ"山の翁"殿から度々噴出する色。
言葉をかけて、数瞬。ゆっくり、目の光を細めて私を見る。

「そうか、そこまで視えるようになっているのか」
「はい」

この数ヶ月。様々なものが見えるようになった。このランタンの炎の色の違いであったり、ニトクリス様の眷属であったり、あるいはジャック・ザ・リッパーと呼ばれる少女の躰に纏わりつく多くの水子の姿であったり。そして当初は朧げであった筈の"山の翁"殿の姿であったり。
しかしそれは私に恐怖を抱かせない。『ただそこに確固として存在する』というだけの話。世界の拡張にすぎない。今風にいうのならばアドオンだ。魔術師らしくは、ないかもしれないけれど。

「"山の翁"殿」
「ならぬ」

私がもう一度話しかけると続きを聞くまでもなくそう一言に両断し、その姿は影に同化して消えてしまった。後に残された私は、ただただ月明かりの下でランタンを眺めるばかり。

12月に入り、にわかに中が騒がしくなってきた。フジマルさんの経歴の詐称。どうやって彼を無事に送り出せるのか。彼が為したということは記録上なかったことにされる。それは、私たちスタッフの感情で言えば到底看過できないことだった。彼があれほどまでに頑張り、地面を踏みしめ続けてくれたからこそ今年があるのに。しかし彼の身の安全を考えるのならばそんなものは瑣末であることは明白で。

そうして近々、嵐が来るのだろうと確信に似た妄想を抱きながら私は吹雪く窓の外を見ていた。

査問委員会が入り始め、昼間は人がばたばたと走る廊下も今はしんとしている。そもそも、人がいたとしてもいまの自分にはあまり関係がないのだけれど、まぁ気分の問題だ。それに降霊科やネクロマンサーや魔眼を持つ人間がいないとも限らない。

「"山の翁"殿」

各自に与えられている部屋の前でそう声をかけると、「断る」なんて素気無い返答がぴしゃりと。

「嫌だな、まだ何も言っていないじゃありませんか」

その即答に、私が歩いてきていることも、私が何を考えているのかも、すべてお見通しなのだろう。当たり前だ。この方は私の魂とつながっている。一番偽ることができない場所で深く深く。

「入ってもよろしいですか」

しかし返答はなく、私は「失礼致します」と扉を通り"抜けた"。かしゃりとランタンが笑う。
抜けた先には、ぼんやりと闇の中で淡く光る"山の翁"殿。わたしのあるじどの。

私は扉の前で膝をつき、こうべを垂れる。

「……近いうち、ここで、きっと良くないことが起こります」
「何故」
「貴方様がここに召喚されている、そのことそのものが証左と言えましょう」

今年の始め、この方は召喚された。それは彼にまた困難が降り注ぐということだ。それが今年の今までにあった亜種特異点群のことだと言われても仕方のないことだが、違う。あれらとは比べものにもならないものがこの先に待っている。この方は、それを"知っている"。事象だからこそ理解しうる物事だ。

人理焼却とも亜種特異点群とも異なる世界の危機に立ち向かえと背中を押される。矢面に立たされる。だからこそ、このような尊い方がか細い縁を手繰って来たのだろう。

それが起きる前の嵐で私は死ぬだろう。立ち向かうこともできず、暴風になぎ倒される。為すすべもなく、彼の力になることもできず。そしてそれを誰かに伝えることも罷りならない。何故ならば事象であるが故にわかることだからだ。なんの確証もなく、また存在として逸脱している。それを行えば、世界から弾き出されてしまうだろうことは本能で理解した。

だからこそ、私は概念として上位でありながらも在り方としてはいまの自分とおなじこの方にお願いをしにきたのだ。

「────私を、貴方さまの炎の一部にしてくださいませんか」

人を灼くことのない蒼い炎。それは貴く、美しく、気高さをたたえている。

「私はもうヒトではありません。帰る場所もなくなるでしょう。ですが、私が貴方さまの炎となれば、また彼が呼んでくれた時には実体化し手を貸すことが出来るかもしれません。これは、貴方が唯一だと表現した契約者である彼の命を繋ぐことにはなりませんか」

ずるい言い方だと、思う。けれど本心だ。
完全にこの方の炎となりたいことも、彼の手助けをしたいというのも、すべて真実。虚偽などあるはずもなく、する必要もない。"山の翁"殿は私の願いをわかっていた。だから聞く前に両断した。けれど、言葉にするというのは存外大事だ。

ああ、ほら、目を閉じていてもわかる。仮面の奥の蒼がゆらめいた。

「ヒトの子よ」
「はい」
「汝の炎をここへ」

────それ、は。

顔を上げると、先程よりずっと近いところに声の主様がいた。
その見下ろす瞳に頷き、腰のランタンを差し出す。かしゃりかしゃりと、私の歓喜の感情を得てはしたなくも金具が笑う。

そうして私は、彼の方の炎となったのだ。