歌うことが、唯一の趣味だった。

そんな私はとあるバイトに飛びついて、その勤務場所が雪山の上だというので、ほんのなけなしのお金をはたいて楽譜を買ってここに来た。何となくひっそりと募集されていたバイトに応募してみたら当たってしまったのだから、何ともまぁ変な流れだ。後から考えてみれば、あの募集は"そういう人間"にしか見えない・認識できないモノだったのだと思う。たぶん。

そうして所長が死んでしまって、何が何と分からぬまま人理を修復するだなんてことになってしまって、隣に彼女がいてくれなければ私は何度発狂していたかわからない。人を倒す。血が舞う。マシュの柔肌が砕け散る。それでもその光景から、私は目を逸らすことは出来なかった。ただただそれだけが、私に出来ることだったから。

だから歌を口にした。すべてから逃げるように。光を求めるように。レイシフト先でしか見えない太陽を、現世で見るために。たったひとりで、誰もいない防音の部屋を見つけて、楽譜を暗闇で指先で辿り続けた。

辛くは、あった。辛くないとは言えない。それでも私にはまだ掴めるモノがあったし、共に駆けてくれる私よりも幼い笑顔を見せる女の子もいる。だから、音楽にしがみついていた。

「我が顔を見る者は、恐怖を知ることになるだろう────お前も」

しかし、そんな生活も彼────ファントム・オブ・ジ・オペラと呼ばれる彼が来てから一転した。私の喚び声に応えてくれたらしい彼は、しかし私を『お前』と低い声で牽制した。なるほど、どうやら慣れ合ったり会話が出来るタイプではないようだ。まぁ、それでも。

「わかった。じゃあ見ないから、よろしくしてくれると助かるかな」

きっと仲良くする気なんてないのだろうと思いながら、表面上程度の友愛を撫でて欲しくて手を差し出した、瞬間。

「クリスティーヌ」

え、と疑問が床に落ちるか落ちないか、彼は私の手を取ってそんなことをのたまっていた。

────クリスティーヌ。それが何を意味するのか、浅学である私でも多少なりとも知っている。歌姫の名前。オペラ座の怪人が愛した女性。その名前を、私を見据えて言う彼は、何を考えているのだろう。

私には、わからない。
わからないのだ。

だからこそ、私は歌うことを止めた。
唯一の趣味と言えるそれを。
彼が歌姫の夢をひと時でも見られるように。
それは歌を棄てたカナリアで
それからの行動は迅速に行った。

歌うことをやめようと、張り詰める雰囲気をやわらげるためにカルデアでかかる音楽からも逃げて、持ってきた楽譜ぜんぶぜんぶに錠をかけて、地下書庫に押し込んで、その楽譜錠の鍵を排水溝に捨てて。
つまり、音楽という音楽から決別することにした。それだけが、私が決められることだった。マスターとして未熟で、誰かを救うなんて大それたことなんて出来なくて、いつも誰かに助けられて、誰かの盾の影に隠れて、戦闘指令なんてことも満足に出来なくて。

そんな私が、私を通して誰かを見ることで満足させることが出来るのならと考えた結果だ。そう、私の考えだ。この選択の責任を誰に負わそうとも思わない。これは、私だけが出来る私だけの判断で決定なのだから。誰にも渡さない。渡せない。たったこれだけが、私のマスターとしての誇り、だから。

「私は歌おう、君へ、多くの愛を……」

結果として、それは良かったのだと思う。

竜種の多いフランスで、その巨体の影にひそみ懐から喉笛を切り裂く彼の鋭い指先は、多くの戦場を掌握した。踊り、歌い、愛を言葉にのせている彼。
けれどこの行為は、彼の……歪んでいるとされる愛とはいえ、その想いを利用しているように、莫迦だと嘲笑っている行為に思えてしまう。だから私は歌姫の資格などないと言うのに、それでも偽りの歌姫の皮を被り続ける滑稽さといったらない。

「ファントム、貴方、」

最初以降、私に決してふれない影の紳士。

「あぁ、もっと、もっと声を……」

そして元より決して歌わない歌姫。

貴方は、本当は視えているのではないの────?

そう問うだけで、すべてを壊せるかもしれないのに、私はどうしても一歩が踏み出せなかった。一重に彼の力を、手放せないから。あぁ、そんな人間がマスターだ何て、本当に笑えてしまう。

「貴方、も、私についてきてね」
「歌姫の歌声の果て、それが、わたしの行く先……」

その言葉のろいに、私はただ花のように振る舞うのだ。

第二特異点で、先輩の異常が発覚した。

音楽と言う音楽が聴こえないそうだ。最初は笑って誤魔化そうとしていた先輩も、ネロさんの街で抱く違和感を盾に強く迫ってみれば、ようやく話してくれた。曰く、音が流れていることはわかるのだけれど、それを音楽だと認識してくれないのだという。雑音。ノイズ。思考の妨げとなるそれを、この街に食客としている間ずっと抱えていたのだ。

このことを非常事態だと判断したドクターが緊急事態を発令して、マスターの身柄を優先しレイシフト先から帰還することを命じた。私はそれに頷いたし、どんなことがあっても先輩を送り届けるつもりだった。

けれどそれは節約するべきカルデアの魔力を使うことだと、マスターはこれを固辞する。ダ・ヴィンチちゃんも苦言を呈していたけれど、最終的にはマスターの意志を尊重する結果となってしまった。というより、本人の意思が伴わない状態でのレイシフトなど、あまりにも怖くて行えないというのが本当のところだろう。

その後いろいろ確認してみて、確かに音が聴こえないわけでは、ないらしい。現に死角から話しかけられた言葉でも、するりと反応する。ただ、和音が聴こえない。

遠くで観測しているドクターにこっそり訊いても、彼女の精神値はセーフティをキープしているし、音楽が聴こえないなんてことは私が違和感を持たなければ気が付かなかった可能性すらある、とぞっとするようなことを言われた。あれが、セーフティだなんて。そんな。

けれど本当に聴こえないのだとしたら心因性によるものかもしれないと。ドクターは今やカルデアのトップではあるけれど、元々は医療チームのトップであるだけだった。つまり、本職。その彼がわざわざ口に出すのだから、その可能性はとても高いということだろう。
けれど、本当にそれだけなんだろうか。

第二特異点から帰還して、直ぐに他のサーヴァントに気取られぬようしかし有無を言わさない迅速さで私は医務室へ叩き込まれた。いや、マシュの先導は丁寧だったし、叩き込まれた、なんて表現は失礼なのだと思う。それでもそこに私の意志など介入していなかった。

「さて、それじゃあ面談と行こうか」

白い部屋でDr.ロマンは、いつもの柔和な笑みでそう言った。

「そういえば、こうして君とゆっくり話すのは、久しぶりかも知れないね」
「あぁ、そうですね。たしかに」

第一特異点から帰還ののち、第二特異点の発見はそう時間が空いたものではなかった。私は英霊たちとの契約に奔走し、ドクターはドクターで現在生存しているスタッフの取りまとめと現体制をつくることに必死だった。会話など両手の倍で事足りるレベルだった可能性すらある。

「というか、面談なんて要らないですよ。戦闘に支障はありません」

私に歌が聴こえていようといまいと、音楽が聴こえようといまいと、本当にそれは戦闘に支障など起きようがない、というのが実態だ。私がレイシフトを行わなければならないのは、私がマスター適正というモノを持ち合わせているからだけに他ならない。言ってしまえば、ある程度自由意志のある英霊たちに任せて、人形のような状態でも、まぁ平気だろうとさえ思っている。

「馬鹿を言っちゃいけないよ。それは、確かな異常だ。それを君自身が見て見ぬふりをするだ何て、自分を大切にする気がない証拠だ」

────自分を、大切にする。

酷いことを言うのだと思った。こんなことになって、いや、彼自身も夜遅くまで朝早くからカルデアの中を駆け回ってスタッフのことに気をかけて陣頭指揮を執り、尚且つ私の世話までみている。ダ・ヴィンチちゃんが居なければ、この人はとうに過労死していたかもしれない。それほどまでに働いていることは、知っている。

それでも、ほんの少しの棘が刺さるのを、自覚しないではいられない。

「自分を大切にするって、そんなの、ドクターにも言えることじゃないですか」

極力いつものように笑って、軽口を返した。すると、こん、と白い手袋が嵌った手で小突かれる。

「今はボクのことじゃないよ」

そうぴしゃりと言われて、溜息をつく。まったく、こういう時は本当にドクターなのだから、びっくりするし、頼もしい。その頼もしさが今は恨めしいのだけれど。

「まぁ、心当たりがないとは言いませんよ」
「そうなんだ?」

えぇ、と頷いて、私はあるサーヴァントとの関係と胸の内を話し始めた。

「なるほど、歌姫であるために、歌うことを止めた、と」

このカルデアで呼べたサーヴァントは酷く少ない。その中でも、一番錬度の高いサーヴァントは確かにアサシンである彼だ。

「その、人払いをして歌う時間を作ってもいいんだよ。ダ・ヴィンチちゃんだってきっと協力して……」
「いいえ、いいんです。きっとそんなことをしてしまったら、私は彼の望む私ではいられなくなるし、精神汚染をされてしまっている彼がそれを素直に聞くとも思えません。一音でも聴かれてしまったら、歌姫ではないことを直面させてしまうでしょう」

ボクの言葉をさえぎって、彼女は言う。

「それに、彼は第一特異点でよくやってくれました。新米でへっぽこで未だに敵が来たら腰を抜かしそうな私の指示に良く従って、何度もワイバーンの襲撃を退けてくれました」

かの紳士をとても評価している言葉に、嘘はないのだろう。たしかに彼の"歌姫を守る"という意図にブレはない。だからこそ護衛としての力量は恐ろしく高い。しきりにマスターへ愛を届けなければ、の話だけれど。……もしかしたら、彼が戦場で歌うあの歌から逃れるために、音楽すべてを脳が拒否し始めた可能性も、ある。

どうすればいいんだろう。愛も恋も、人間になってからはしたことがないから、わからない。それでもわからないなんて投げ出すつもりはなかった。彼女の無事を守る事、それがボクのみた未来を回避させる唯一の方法だと信じているし、それに彼女自身のことを案じている自分がいるのもわかる。

「それに報いることがマスターの役目で、それに報いることが出来るのはマスターである私の仕事なんです。何もできないマスターだから、それぐらいはさせてください」

いつの間にか刻まれていた赤い令呪をそっと撫でて語られる。あまりにもまっすぐ過ぎるゆえの歪みだ。何もできないと思い込んで、だからこそ自分に出来ることに精いっぱいで。

「あぁ、でも霊基凍結補完も考えたことはあるんですよ。でも直ぐに消しました。何か不都合があれば……なくても、そんなことをするマスターだと認識されるのはこれからを考えて明らかにデメリットです」

だから、これで良いんです、と。カルデアで唯一健在のマスターであるひとりの少女は、自分の人間性を世界のために捨てるのだと、医務室の白い光の下で言外に宣言し、ふわり、花のように微笑う。

けれどその微笑みが、彼女が耳を掻きむしりたくなるほどと評する彼の微笑みと重なってしまったのは、一体どういうことなのか。




そうして、彼女が本当に────本当に、歌姫に身を落とすことになるとは、この時誰もまだ知らなかった。
彼女の歌姫としての振る舞いが、『マスターの使命』ということを隠れ蓑にして、真実は『恋情』から成るモノだと誰も……彼女すらも気が付けなかったんだ。

ねぇ、ファントム。
私は、本当はね、貴方の歌姫に────。