シャドウボーダー共同寝室の一つのなか、二段ベッドの下。

呼吸を荒げる私の下に、マスターがいた。

しかしそれは決してなまめかしい話ではなく、ただ単にマスターの首に私が手をかけているというそれだけの事実だ。殺したいわけではなく、顕現を拒みたいわけでもない。
だがしかしそれでもこの手はその首から離れてはくれなかった。

当のマスターはと言うと脅えるでもなく、拒絶するでもなく、恐ろしいものを見る目でもなく、ただ無感情に私を見上げている。首に手をかけられていることを歯牙に掛ける様子もない。

それがどういったことを表しているのか、おおよその構成部分が人間ではない私には理解ができなかった。

「────」

そこで一つ、音が生まれる。空気が拮抗していた空間だというのに、布擦れの音でもなく、私が退く音でもなく、ただ、声が。

「いいよ、折って も」

最後の音は自分の耳に届いていたのだろうか。分からない。しかし許可が下りてしまったことを理解した瞬間、自分では万感の思いで力を籠め、そのただの人間であるマスターの首をへし折った。
簡素な音だった。

英霊でもなく、マスターとして育ったものでもなく、自身の体を武器として戦う術を身に着けたわけでもなく、ただ魔術が使える血袋の 首を。

しかしそれはあまりにも誤った認識だったのだ。

マスターは死んだ。当たり前のことだ。人間は首を折られたら死ぬ。心臓射抜かれても死ぬ。脳が破壊されても死ぬ。英霊の核もほぼ同様に人間の急所に置かれ、人間のように死ぬ。

そう、当たり前のこと。だというのにマスターの身体は鼓動を止めることはなく、魔力の渦が心臓から飛び出し今まさに私が手折った首を修復した。そして、意識さえも。

────魔術。

死んだ人間を生き返らせるのは魔法の領域だが、しかし『致命傷を負った際にそれを治癒する』程度であればある程度魔術に精通した者なら可能であると、あぁそうだ、聖杯から与えられている。通常聖杯がここまで魔術に踏み込んだ知識を授けることもないだろうが、事態が事態だからかもしれないとぼんやり思考する。

「いやまさか、こんな形で役に立つとは思わなかった」

そう笑って、今の今まで死んでいた筈の、死んでいなければならなかった筈の相手は上半身を起こした。

つられて、こちらも体を僅かに退かせる。それは、あるいは恐怖だったのだろうか。

そんなことを考えていると、そっと音もなく近付いてきたマスターは私の手を取り、再度自らの首へ持って行きにこりとまた笑う。

────もう一度、折るかい。

それは、黒い手袋の下にある白い首に喉に目がいってしまうのは無理からぬ話だろう。多少皮膚が傷ついたそれ、私が手折った証も消えてしまうのだろう。

じわりと汗が背筋を伝う。
ごくりと唾液が咥内に溜まる。

有り体に言ってしまえば、それは、好ましい提案だった。

やはり私はどうかしてしまったのだろう。いや元からどうかしていた。実在の人間としての意識を削り、"無辜の怪物"として存在するほどの噂に置き換え、纏い、その果てに顕現したアントニオ・サリエリの名を冠しながらも、決してアントニオ・サリエリではない"何か"というのだから。

それは英霊ではない。
それは人間ではない。
それは 怪物なのだろう。

けれどこうして目の前にして、魔術師というのは怪物とは違うのかもしれないが、しかしアントニオ・サリエリを核とし、人間であった頃の記憶や感覚を微かに持つ私からしてみればその在り方は怪物としか言いようがなかった。

その視線に気がついたのか、あぁ、と合点がいったように頷き私の手を離した。

「君は、これが怖いのか。反英霊としてここに顕現してはいるものの、奥底には音楽家として真っ当に生きてきた記憶をも持つ。だからこそ」

それは、明らかな区別。線引き。ここからは自分の領分だ、と。

「私はもう無理だ。人間としての心を失っている。まぁ魔術師というのは元々持ち合わせちゃいないんだけれど。これが怖いのであれば君はまだそちら側の存在だ。わざわざ魔術師なんて爆弾に触れようとは思わなくていいよ。触れちゃならない」

そんなことを訥々と、訥々と、口早に言葉を落とす。まるで遠くに語りかけるように。

聖杯から私を呼び出し、英霊として現在顕現させ続けているというのに。このマスターが聖杯戦争について知らないわけがない。聖杯はその時点での最低限の、マスターとの意思疎通を図るための知識を与える。それを知らない筈がないのだ。

だというのに何故そのようなことを言う。
どこで思考回路が狂っているのか。

私は……いや、アントニオ・サリエリは生前そういったものに触れてはこなかった。それは事実だ。ただの音楽家であり、ただの、アマデウス・モーツァルトの友人でありたかったごくふつうの人間。

だがここにいる我は、わた、しは、聖杯より出でし無辜の怪物。反英霊。そのような存在に魔術師に近づくな、などというのはあまりにも愚かしい話だ。しかしそれでも相手は私を尊重しようとする。
我ではなく私を。

それは、きっと一般人に近しい心情だと私は思った。
人間ではなくとも、人間の形をしているモノを人間として扱おうというのは、人間の機微だろう。

しかしそれを理解しえないのは魔術師だからだ。魔術師の家の人間として育ち、魔術と根源の渦に至ろうとする気概はなくとも魔術と共に歩み、カルデアに採用され人理修復の手伝いをし、他の人理を破壊せんと、そう願う。

ひとつの体に矛盾が生み出され続けそれが服を着て歩いているようなものだ。いつか自家中毒を起こしかねない思考。信条。

「アヴェンジャー」

闇に落ちていた思考を引き上げるかのような声。するりと両腕の中から中途半端に私が覆っていた足を抜き、ベッドから降り立ち上がった相手は私を見下ろす。

「私は君の願いを聞かない。だから、君も私の願いを聞いてくれるな」

繋がらない会話。だが理解する。これは確固たる、線を引く言葉だ。

私がただの人間であり、己が一般から理解されず魔術してあるということ。孤独ということはないはずだ。魔術師が集まるこの場所で。ごく当たり前のように結界は張られ、魔術は行使され、それを隠すことなどしなくてもいい。ここにはマスターは一人ではなく、カルデアの がいる。魔術師としても、マスターとしても、ひとりではない。




しかし、それは私が手を伸ばさない理由にはなるのだろうか。

マスターと、サーヴァント。
ただそれだけの関係であると突きつけられる。
他の人理を破壊するためだけの関係だと。

あぁそれでも。
私はマスターの隣にいるとそう誓った。
マスターが奏でる人生の音を聴くと、そう願った。




そんなことを考えていたらとっくのとうにマスターは部屋から出て行ったようで、少し魔力を辿ってみると運転席の後ろにあるセントラルに足を向けたようだった。




私は貴様を離しはしない。
たとえ貴様がそう願ったとしても。




それが、我が音楽を奏でし者の運命だ。