夜明け前の静けさはなく、横に立つ影はたった一人。その緑の外套は揺らめいて俺の視界を遮った。

「どうだ、マスター。これでもまだ希望があると言えるのか?」

傷のついた頬をこちらに見せながら、彼は笑う。けれどその皮肉げな笑みは馴染みのあるもので、それが日常を想起させてこちらの感情を落ち着かせる。

「……ふん、なるほど、そんな顔が出来る程度には、か」

こちらに向けた視線を再度前へ。そこには合成獣と呼ばれる敵対生物が三体、虎視眈々と今にも牙と爪を向けそうな表情で俺たちを見ている。

共にカルデアを発ったサーヴァントはもう、エドモン・ダンテスただ一人になっている。他はすべて倒されて、その霊基はカルデアへ帰還している筈だ。耳元の通信転送機は、初撃を庇って貰った際の転倒で壊れたのかノイズ音しか返してはくれない。本当、こういうのを絶体絶命って言うんだろう。

右手の甲に刻まれた令呪はちりちりと痛みを増して来ていて、絶体絶命のこの場で使えと、魔力が俺に命じているようにさえ思う。
魔力の塊であるこのシルシは、カルデアからの魔力を蓄えることで徐々に回復していくものではある。けれど、あまり使いたくはなかった。サーヴァントの身体に抗えない命令を出すというのもそうだし、魔力放出に俺の身体が付いて行かない可能性もあるなんてことを考えたりもした。

けれどそんなことを言っている場合ではないのだ。
だから、俺は笑おう。
何よりも誰よりも、君といるのだから。

「エドモン・ダンテス、頼みがある」

滅多にないフルネームの問いかけに、視線だけが返ってくる。それに頷いて、右腕を前に突きだしそれを左手で支え、叫んだ。

「魔力を最大で回す。俺の手足となって最大火力でこの戦場を制圧しろ!」

令呪全画を解放する瞬間、ぢりぢりと右腕が灼けそうになる圧の中、彼は確かに笑っていた。反英霊だ、復讐者だ、などと言いながらこんな強欲なマスターの元に来てくれた彼は、決して他人の欲望を笑わない。

圧縮した魔力が注ぎ込まれた彼は一躍で合成獣たちに肉薄し、その高笑いで以て、俺の願いを達成させていた────。

暗い天井。動かそうとすると容赦なく軋む体。ふかふかの寝床。
満足に動かない体を認識して、どうしたものだかと悩んでいるところに、部屋のドアが開く音と共に白い電灯がついた。眩しい。

「あれ、先輩……? 起きたんですか!」

眩しさに顔をしかめる俺の顔を覗き込んできたのはマシュで、一瞬驚いた表情のすぐ後、その眼鏡にぼろぼろと涙が零れ落ちる。さらりと光を反射する桃色と赤いネクタイは、あぁ帰って来たのかと、そう思わせるには十分な要素だった。

「えっと、ただ、いま、」

何とか辛うじて動きそうだった左手を毛布から出して頬に添えると、はい、おかえりなさい、と涙のまま出迎えの言葉を。それにしてもマシュの涙はやっぱりあんまり見たくないな。紫水晶のようなきれいな瞳が翳るのは、どうもよくない。うん。

「医療スタッフの方に、先輩が起きたって伝えてきますね」

そっと左手を下ろされて、たっと走って行くマシュは止める暇もなく部屋から消えてしまう。

しん、と静けさを取り戻した部屋は耳が痛い程。まいったな、こんなにさびしがり屋だったか、俺。

自由な左手で顔を覆ってすこし反省してから、ふん、と力を入れて上体を起こしてみる痛い痛い痛い痛い。痛い。だい、ぶ、痛い。
でも起こせた。よし、と痛みに負けて前傾して布団に預けた身体をもう一度起こしてみると、歪な右腕が目に入る。指が辛うじて五指を保っているそこは、血が滲んだそれは、布団にもじわりと痕が移っていていい気はしない。

「……やっぱり無茶だったか」
「あぁ、無茶だったな」

誰もいないつもりだった呟きは、影に拾われる。

俺が驚きで目を開いている間に、ずるりと影からエドモンが顕現する。もしかしてずっとそこにいたのだろうか。ずっとそこにいて、俺の容態を気にしていてくれたのだろうか。

「ロクな魔術回路もないマスターが、俺の身体を満たせるほどの魔力をいきなり放出した────片腕で済んだだけでも御の字だろう」

そう、どう考えても機嫌の悪い言葉を聴きながら、ごめん、と言ってしまった。それに対して、エドモンの口の端が動いたのが視えて、左手を前に出し黙らせる。

「でもさ、俺は生きて帰って来たよ。もちろん、俺だけの功績じゃないけど、それでも、あれは俺が出来る精一杯だったって、今でも言える」

魔力もろくに蓄えられず、潤沢な魔術回路もなく、魔術刻印なんて以ての外で、正統な魔術師の家に生まれたわけでもない、単なるマスター適正があっただけの一般人。そんな奴の召喚に応じて、ついてきて、今ここまでいる君たちに、俺が出来ることはそんなにない。だけど。

「さすがに、命は投げ出さないよ」

だって怖いし。いろんなひとに救けられたこれを、自分から投げ出しはしない。全画消費だってエドモンがやってくれるって信じてたからだし。……意識消失は誤算だったけど。

「でも、それが信じられないなら傍に居てよ」

今まで掲げていた左手をおろしそう言うと、今度はエドモンが僅かに目を見開いていて、珍しい表情だなと思う。

「ほら、約束」

左の小指を差し出すと、何だ?、と訝しみ。あぁそうか。

「ゆびきりげんまん、っていう、俺の故郷に伝わる約束の儀式……かな」

儀式と言うほど大層なものではないかも知れないけれど、肌を合わせるのは大事なことだ。

「契約と言うことか」
「うん」
「復讐者である俺と、それをすると?」
「うん」

差し出したまますべてに頷くと、はぁとため息をつかれたものの、エドモンは手袋を外してベッドに腰掛けてきた。差し出された小指に自分のを合わせて、歌を口にする。

「ゆーびきーりげんまん、うっそついたらげんこつまんかいおー、とす。ゆびきった」

最後に放す瞬間、エドモンが変な顔をしていて面白い。

「ね、だから俺が約束を破ったら、殴っていいよ」
「……その時、お前は死んでいるだろう」
「あー、それもそうだ」

ははっ、と笑えば、笑いごとじゃない、とぴしゃり言われてしまう。

「その光、潰えさせるな」

硬い言葉は、真っ直ぐな視線と共に、俺の胸へ。

「えど」

名前を呼ぼうとした瞬間、走ってきた足音が部屋の前で止まりドアが開く。それと同時にエドモンはまた影となって消えてしまった。行き場のない音が喉の奥で蹲る。

「先輩、寝てないと駄目ですよ!」

心配性なマシュと白衣の医療スタッフが走ってきて、そっとベッドへ倒される。顎元までかけられた布団の中で、そっと一言、わかってる、と呟いた。きっとこの影は聴いてくれているから。そう、信じて。