「こんなところにいたのか、契約者」
そう声をかけられて振り向いてみれば、私の焦がれたあの人。明るい月の下では黒く影に潜む鎧も形無しである。
「どうも、こんばんは」
風が薄く吹いて、コートの合わせ目を強く握る。さくりさくりと雪の上を歩いて、大きな影は私の横に。風上に立たれてしまって、どっちなのだろうと少し思考して、やめた。
山の方は先程の私の視線をなぞって、合点がいったように小さく頷く。
「なるほど、月か」
「はい、あんまりにも綺麗だったので」
下げていた視線を空に戻して月を見る。まんまるなお月様。ここは山の上だから、吹雪いていなければ下よりずっと空気が澄んでいて綺麗に空が見える。調べてみたら渡り鳥が通ることもあるらしくて、待ち遠しい。
「……人理を修復するまで、ここは吹雪で閉ざされた場所だったんです」
もちろん、吹雪いていなくても他の場所は既に飲み込まれていたのだから外界があろうと無かろうと『文化的には閉ざされた場所』だったのだと思う。それでも、空が見えたらもう少し精神的にマシだったんじゃないかなと考えてしまうのも仕方ないだろう。
「だから、こんな風に月を見られることが、凄く嬉しいんです」
ふふ、と笑うと口元から白く吐息が零れる。見上げた山の方は、呼吸方法が違うのか、呼吸をしていないのか、月光をうっすらと反射させる仮面に変わりはない。
「そうか。契約者がそういうのなら、美しいのだろう」
そうあなたは言う。
個人としての欲をすべて捨てたと宣言した人が、私の価値観を疑わず委ねている、そのことがどれだけこっちとしては恥ずかしいことなのか、ちっともわかってはいないのだろう。
「寒くはないか」
「え? まぁコート羽織ってますし……でも、そうですね。もう戻りましょうか」
晩御飯を食べて、一息ついて、月を見に来て。そんなこんなで、もしかしたらお風呂に入ってさっくり寝る時間かも知れない。
あぁ、そう言えば、山の方が来た時に私を探していたようなそぶりをしていたけれど、何か用があったのだろうか。
「あの」
「もうしばらく、こうするのも悪くないだろう」
言って、ばさりと両側が閉じられた。否。山の方が後ろに移動して、私を外套の中にいれたのだ。不思議とそれは山の上特有の寒さを遮断して、私の指先に血液が巡る感覚が訪れた。思っていた以上に体が冷えていたのかもしれない。
「ありがとう、ございます」
「ところで何か言いかけたか? 契約者よ」
ちょうど頭の上から問われ、こつん、と鎧に軽く頭を預ける。
「探していたみたいだったので、何かあったのかと」
「特に用はない」
「……」
特に用はないのに探し出して、外套の中に入れてくれて、それをしてまでもう少し月を見ていようなんて、まったく、山の方は心臓に悪い。
「どうした」
「え?」
「心音が速くなっている」
「────」
誰の、せいだと。
そう言いたかったけれど、言いたかったけれど、そんなことを言ってもどうにもならないし、変に誤解されて医務室に連れて行かれても困る。こうして月をまだ見ていたいのは私だって一緒なのだ。
「べつに、気にしないでください」
「……そうか」
すると頭を預けていた胸が離れ、代わりにと言わんばかりに頭に重みが乗ってくる。……もしかして、わかっててやってるんじゃないだろうか。特にこの人は、必要魔力量を謀って顕現したのだ。慌てる私を見て楽しんでいたことがある。
「山の方って、存外いじわるですよね」
すこし拗ねた風に言ってみると、くっくっく、と喉で押し殺した笑いの振動が頭をこねる。
「そうか。汝がそう言うのなら、そうなのだろう」
頭の中に、背骨に、じんと響く重低音。
あぁ、やっぱり私はこの人に骨抜きにされているのだろう。魔力だけではなくて、存在全体が。勝てるわけがないのだ。