楽器を作ったことがある。

それほど昔ではないのだけれど、今思い返すと遠い記憶のように思えるのだから不思議だ。自分は音楽はあまり得意ではないけれど、それでも人々を惹きつけ得るあれらは、とても良い物なのだろうとは思っていた。
星が降る日に、あなたと
五つ目の特異点の修正が終わり、次の特異点を探索中の時期だったと思う。機械班の自分は束の間の休暇と言うことでソファに座り、談話室の端っこから英霊の方々が団欒しているのを見ていた。

自分から反対側の方にあるピアノは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトさんが作り出したもので、当たり前のように魔術が施されているらしくどれだけ弾き続けても音色が狂うことはなかった。ように思える。私はあまり音感応が高くないから、たぶんというしかない。

設置したモーツァルトさんがたまにプチコンサートをやっているのを聴きつけて、ライムさんやジャックさん、ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィさんを筆頭に、アステリオスさんやバニヤンさんなど、それにフランスの王妃であるアントワネット様やその騎士であるデオン殿など、他にもその時その時でいろんな英霊が立ち代り彼の演奏を耳にしていた。中には職員もいたし、マスターである藤丸さんもそうだった。

みんな楽しそうにしている。手を叩いて、たまに踊ってみたりして、音楽と言うよりはそういう風景を眺めるのが、私は好きだった。誰かが楽しそうにしているのを見るのが、好きだった。




暫くして談話室から人が三々五々に散り、さて部屋に帰ろうとソファを立ち廊下に爪先を向けたところで、思うところがあって書庫の方へと向かった。

死体はなくともリストコムから死亡が確認された人たちの私物は各部屋から回収され、それらは書庫や倉庫へ収められた。中には音楽を専攻していたしていた人もいた筈だ。もちろん、その家の魔術に関するモノはドクター・ロマンなどが責任を以て厳重に封をしていたのを覚えている。他人の家の魔術を盗み見たって仕方ないとはいえ、それは気軽に触れていいものではないと言うのも確か。世界が平和になり"また存在するようになった"なら、きちんと返されるのだろう。

それでも商業的に世の中に出回っている品は自由に取り出していいものとして棚に収められている。その中にあったはずだ。簡単な楽器の構造を記したものが。




カルデアでは、あの事故で出てしまった廃材も何かに使えるかもしれないしそもそも処分するエネルギーが勿体ないと言うことで、一ヶ所に集められている。そこから少し貰うぐらいなら特に申請も要らないぐらいだ。

そこから少しずつ使えそうな木材や鉄部品を集めて、電力を使わないようなるべく指先を強化し鑢にして手作業で、でも個人部屋だといろいろと差し支えるので作業部屋にて業務外の時間を使いこつこつと『それ』を作っていった。

何となくの形が出来たところで、用意していた棒で叩いてみる。……うん?何か音が違うような気がする。一応設計図通りには作れたと思うのだけれど、何だろうな、と自分で首を傾げてしまった。私がわかるぐらいなのだから、きっと他の人はもっと違和感があるだろう。失敗だろうか。

やっぱり音楽に興味のない人間が楽器を作るなんて、土台無茶な話だったのか。それでも、そんな人間でも、あの子たちに楽器を叩く機会があればいいな、なんて思ってしまったのだけれど。

ファトマさーん」

そんなことを考えながら身体を寝転がせて工房の床から天井を眺めていると、藤丸さんの声がした。ひょこりと入口から顔を覗かせたのは(当たり前だけれど)すこし明るい髪を結わえた女の子。今日はポニーテールの気分らしい。

「どうかしましたか」
「ドクターがちょっとコフィンの様子を見て欲しいって」
「あぁ、わざわざすみません。内線の調子悪いんですかね」
「いえ、私が行くって言ったんです。あんまり機械工房って見たことないなって思って」
「楽しい物は特にありませんよ」

そんな風に言いながらも、藤丸さんが入ってくることは別段嫌厭ではなかった。もしかしたら魔術師としての素養が高い人は自分の工房に素人が入ってくることを嫌がるかもしれないけれど、特別自分はそっちの方向が強いわけでもなく、機械と共にいることが多かったのも事実だ。学問として魔術を学んだことはあれど、しかし神秘なりしそれらと私の専攻はわりと相性が悪いとされている。時計塔の大部分の講義室ではクーラーすら導入されていないとか何とか。

閑話休題。取り敢えず、この状況で藤丸さんを素人だと侮れるスタッフなんてのはいないだろうけれど。

立ち上がってツナギの尻部分を払ったところで、彼女の視線が床の一点に注がれているのに気がついた。あ。

ファトマさん」
「何でしょう」
「これ、木琴ですか?」

そう、木琴を作っていた。鍵盤打楽器。叩けばだれでも音が出る。ある意味ではピアノに似た性質を持つ。もちろん弾く人間や叩く人間で音色が変わるらしいと言うのは知っているけれど、簡単に特定の音が出せるところや、全ての音にある種のスイッチが割り振られているという点ではわりと力技楽器に含んでいいんじゃないだろうか。少なくとも作りながら私はそう思っていた。音を出すことにあまり人を選ばないその在り方は、何となくここに当てはまるのではなかろうか。

「木琴……のようなもの、ですね。失敗作です」
「え、そうなんですか。でもそっか、楽器って作れるんだ……」

しみじみとしたその呟きに私は笑ってしまい、少し顔を赤くした彼女が、へへ、と笑いを零した。

あぁそういえばドクターが呼んでるんだった、と思いだしたように手を叩いた藤丸さんに連れられて部屋を出る。もちろん木琴はそのままに。

「いやー、でも、木琴でしたね。小学校で触って以来です、見るの」
「ショウガッコウ?」
「あ、えーと、エレメンタリースクール、かな? 7歳から12歳の子供が通う学校です」
「へぇ。こまごまとしてそう」

小さな子供がたくさんいる場所。それはなんというか、あの談話室のことを思い出す。ああいう感じだろうか。

「でも、何で木琴を?」

至極当然の疑問に、ほんの少し沈黙が落ちる。何だか空回りじゃないだろうか。そんな不安が胸中に落ちるけれど、でも、私が見てきた藤丸さんはそれをきっと笑ったりはしないだろう。それがたとえ本当に空回りでも、だ。

「……前に、談話室でナーサリー・ライムさんなどの小さい系の英霊の方々が曲に合わせて歌ってたりしたじゃないですか」
「あー、してましたね! 楽しそうでした」
「それで、もしもっと楽器とかがあったら更に楽しいんじゃないかなぁって、不遜ながら思ってしまって。みんな楽しそうにモーツァルトさんの演奏を聴いていますし」

音楽を楽しめると言うのは一種の才能だ。私はそれを楽しんだことがたぶんない。楽しめたことがない。音には魔力がこもるからと存在を遠ざけられていたことの弊害だ(結果は機械いじりに傾倒する人間になってしまったのだけれど)。でも、音楽に包まれて楽しそうにしている人たちの表情は良い物だと思う。だから、その一端に携われたらと、夢を見てしまった。きっと羨ましかったのだと思う。

「……すごい」
「え」

変な言葉が聞こえたと思って隣に視線を動かすと、両手で握りこぶしをつくった彼女がそこにいた。き、きらきらしてる。何かきらきらしてる。

「それで楽器作ろうって、行動に移せるのいいですね!」
「いや、でも、失敗して」
「どこが駄目なんですか?」
「音が何か変な気がするんだけど、どう変なのかわからなくて」
「じゃあアマデウスさんとかに聴きましょ!」
「音楽に愛されたと言われる人に?!」
「わりとそういうの好きですよあの人」
「藤丸さんわりと物怖じしないタイプだよね?!知ってたけど!」

そんな風に私が返答して藤丸さんが笑う廊下を終えて、休憩時間にモーツァルトさんのところへ持ち込んだ不格好な木琴はしかし真剣に音を聞いてもらえて完成に至った。

どうやら設計図に適した木材と、使用した木材は当たり前だけれどそこそこ違うモノだったようで(木材によって音の響きが違うだなんて考えもしなかった)、そこで齟齬を起こしていたらしい。きちんとそこを踏まえてもう一度研磨し直したら、想定通りの音が出て、それは談話室にある楽器の一つとして使われるようになった。




そうして、時間が空いた時にカスタネットやウッドブロック、簡単な薄い板を張った太鼓のようなものなどを作って、そのたびに小さな英霊の方々は笑って使ってくれた。自分が作ったもので誰かが楽しそうにしている。それは、わりと嬉しいことだった。相変わらず音楽はわからないけれど、それはそれでもう良かった。

矛盾していると自分でも思う。だけどいつか届かない星に近付けるような、そんな気がしていたのだ。錯覚なのだろうけれど。




けれどそれらは全て失われた。
英霊の方々は退去し、楽器は(当たり前だけれど)私物として扱われ捨てるなり持って帰るなりと。まぁそれもそうだと思いながらも、ギリギリまで荷物整理をしていたあの日、世界から追われるように、私たちはカルデアを捨てたのだ。







「それじゃあ、行ってきます」

私たちが転がり出るように現実世界へ浮上した数時間後、ムニエルくんから防寒着を受け取って、藤丸さんが雪上へ歩み出た。それだけでも体の心から冷える風が入ってきて、見送りに来ていた私たちの体温を奪う。機械を扱う上で温熱冷熱は多少なりとも操れる方が何かと都合がいい。つまりそれなりに調整は出来るのだけれど、それでもこの寒さは身に沁みるほどだった。

彼女が着ている礼装はダ・ヴィンチ女史と我ら魔術師スタッフの技術の結晶だ。防御術式も辛うじて組み込んではある。それでも万全の状態で作れたとは言い難い。何某かのアクシデントで破れてしまったらそこから身体機能停止に至るまでさほどはかからないだろう。

それでも、私たちは彼女に託してしまった。
また、世界の命運のようなものを。

彼女の道程を軽んじるわけじゃない。確かに私たちの誰よりもきっと、こういう事態に慣れている。それでも、もっと何か出来ることがあるんじゃないかと思わずにはいられないのだ。世界を救い、帰って来てくれた彼女を再度矢面に出さなければならないなんて。そんな。

そんなの、あんまりだろう。




それから、彼女はいろんな人と出会った。いろんな場所へ行った。たまに通信が利かないこともあったし、命の危険もあったけれど、それでも藤丸さんは立って戦っていた。

そうした中で、村々に立ち寄り、サーヴァントの偵察・撃破の任務を預かった。その際に、叛逆軍の長として立っているアタランテさんははっきりと、「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがサーヴァントとしてとある村に派遣されている」と言ったのだ。

────心の中に、冷えた塊が落ちた。

あぁそうだ、ここは見知らぬ土地。自分が知っている歴史とは全く外れているらしい場所。特異点とも呼べないようなここは、そういったことを『有り得る』ようにさせてしまうのだろう。

それでも、あの、王妃さまと、幼い姿をした英霊の方々に囲まれてピアノを弾いて、たまに夜の談話室でお酒を飲んでいたりもしていたあの人が、村人を殺している。そんなことを私は信じたくなかった。確かに碌でもない人だった。それでも、そんな。マスターによって英霊の在り様は変わる。そんなこととっくのとうに知っていたというのに。全然理解出来ていなかった。

果たして、藤丸さんたちは邂逅する。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと自称する、呼称される、黒い影に。元Aチーム所属、カドック・ゼムルプスに。




そうして、話をする。私たちはそれを聴いていた。ホームズさんの話を聴いていた。

異聞帯────ロストベルト、喪われたタペストリ。
汎人類史に敗北し剪定事象となった世界。あぁ、それは、学んだことがある。それを目の当たりにすることなんてあるわけがないともっていたけれど、なるほど、協会が滅びた世界はあまりにも興味深いことに満ち満ちている。

一旦席を外すように言われ、戻ってきてもいいと声をかけられたところで公表されたのは、スーツの英霊が協力してくれるということと、先ほどアマデウス・オルタとして活動していたのが別人であったことで払拭された筈の懸念だった。
すなわち、異聞帯側にいる可能性。音が吸収される雪の世界に、やはりあの人がいるということを示唆される。

嗚呼そうか。ロシアの芸術家でもない『アントニオ・サリエリ』を拠り所とした存在が音楽もないこの地に喚ばれるには縁が必要だ。それは憧憬でも憎悪でも愛情でも良かった。それを一身に受けていたのが、モーツァルトさんなのだろう。彼がいるということは、相手がいることに他ならないのだ、と。証明問題のようなものだ。

けれども、次いでマシュさんへ告げられたアヴィケブロンさんの言葉に、私も少しほっとする。うん、私が藤丸さんに連れていかれ彼に楽器の助言を請い、応えてくれたのは事実だ。それは変わらない、私だけのモノだ。




暗い夜が明け、薄灰の空になったところで砦への歩みを取り始める。
藤丸さんは決して表情に出しはしないけれど疲れている筈だ。とりわけ、周囲にいる英霊の方々でそういった気配りが出来そうなのはビリー・ザ・キッドだけなのだから、こちらでバイタルには殊更気を配っておくべきだろう。いるだけマシというのはわかっているのだけれど。

『そういえば訊きたいのだが、汎人類史と言うことはピアノがあったりするのか』
『さすがに砦にもシャドウボーダーにもピアノはないです。私たちは今のところ放浪の旅ですし』
『そうか……暇を見て自分で作るしかないな』

こんな時でも音楽家と言う人種は楽器のことを気にするらしい。いや、そもそもどうしてこちら側についてくれるのかといえば一重に音楽へつながる可能性がまだあるから、ということなのだから当たり前なのだけれど。

だからきっと、こういう時だからこそ、というのが正しいのかもしれない。そうまでして人を魅了する音楽とは、一体どういうモノなんだろう。少しだけ、その世界を見てみたいと思ってしまう。

『あ、でもファトマさんは前に木琴とかいろいろ楽器作ってましたよね!』

いきなり名前が呼ばれて咳き込んだのを近くにいたマシュさんが慌てて背中を撫でてくれる。

「急カーブで話題振ってきたね藤丸さん!」
『すみません、でも本当のことですし!』

エゴで作ったあれは宮廷音楽家として身を立てていた人の前に出せるような代物ではないというのに(いやそれはそれでモーツァルトさんに失礼かもしれないが、でも内心の評価はそうなだ)、藤丸さんにとってはあまりそれは重要ではないのかもしれない。そういうところがいいところなんだけど、たまに眩しすぎて目がつぶれたりする。というか今まさにつぶれそうなのだけれど。

『そうか、楽器をつくる人間が生きているのだな。それは素晴らしいことだ』

安堵のため息と共に繰り出される言葉は、ずしりと心に。

『君は楽器を弾いたりは?』
「す、すみません、楽器は作る専門な上にそもそも音楽が専門外で……。私は廃材とかから簡単な楽器をつくる程度でして」
『ん? 限られた資源を使ってでも楽器をつくる必要があった、ということだろう。音楽とはそう在るものだ。満たされるものはあるのだから』

そう、サリエリと名乗った"グレイ"な方は事もなげに言い切った。音楽とは、そう在るもの。その発言の真意は私にはわからない。当たり前だ。だって音楽というものをそもそも楽しめたことなどないのだから。それでも、なんとなく、そうなんだろうと腑に落ちた。そういう概念であるもの。

私は、彼らが笑ってくれたらいいと、どこか落ちている雰囲気が楽しい物に成ればいいと、つまりかなり独善的な考えでつくった。だからそれ以上求めても受け取ってもいけないと。どこかで思っていたのかもしれない。
だからか、確かに心が救われた感触がある。きっとそんなつもりはないのだろうけれど。でもきっと言葉って言うのは、そういうものなんだろう。




ファトマさーん」

物資補給と言うことで諸々を持ち一時的に帰ってきた藤丸さんがエンジン部に顔を覗かせてきて、どうしたのかと訊ねると薪らしき木材の束が差し出される。

「サリエリさんが、楽器を作るあの人間に、と」

つまり、作れと。

「あ、でも物資不足に反応してからの差し入れだそうなので、私が砦にいくまでに作れとかそういうことじゃないとは思います。たぶん」

そうであったのならば、どれだけのスピードを求められているのか、ということになってしまうし、本当にそうなのだろうと思う。音楽に誠実であろうとする人は、その道具に対しても、そしてそれを拙くとも作る人間にはきっと誠実だろう。

「楽器を作る人が、作れる人が歴史が異なっている存在でもこの土地にいるっていうのがすごく嬉しかったんだと思います」

音楽が生まれなかった土地で、その土地の支配者に支配された、音楽家を拠り所にした英霊。サリエリではない、『アントニオ・サリエリ』という存在。そうであっても、彼は音楽を、好いているのだろう。それは否定すべきでないあの人の特質だ。

「部屋のベッドに置いておいてくれるかな、いま手入れで忙しいから。C部屋入って右手の、一段目の方」
「わかりました」
「あぁ、あと、サリエリさんにありがとうございました、と」
「はい、もちろん伝えておきます」

そう笑った彼女の腕の中にある薪が、ほんのすこしだけ私は怖かった。




作業を終え、部屋に戻って触れた薪はしっかりと乾燥しており、きちんと削ったらいい音が鳴りそうだと思う。それは音楽への感応とかではなく、単に今まで楽器として木材に触れてきた人間の感想だ。

薪一本のスケールを図り、頭のなかに図面を描く。紙だって貴重品だ。本来であれば製図台を使いたいところだけれどそうもいかない。
指に光をあつめ、中空に線を描き、以前作った木琴の設計図を起こす。

そこで、停まる。本当に作っていいのか、と。

カルデアにいた頃は、楽器を作成する技術が拙くとも目的も意志もはっきりとしていた。自分の世界のなかで、誰かが楽しんでくれていたらいいと。でもこれを作ったとして、それはどこにいくのだろう。今の自分に楽器をつくる理由があるのだろうか。

目的も感情も定まらないものづくりは、曖昧になりやすい。フレームが透明になりやすい。つまり、使えるものになりづらい。
そうでなくたって自分は音楽に対してそう真摯であるとも言えないのに、あの音楽を愛しているだろう人からもらったものをそんな状態で消費していいのかと言えば、答えは否だ。その程度の分別はある。

そこまで考えて、私は中空の図面を一旦白衣の内側に保存し、薪を枕元に押し込むことにした。







そうして、歴史は動き出す。

動き出した山岳のような雷帝へハンドルを切る新所長の操作に耐えるためボーダーのエンジンを慎重に冷却し続けながら、赤い礼装を纏った彼が弾くピアノをカメラ越しに、はっきりと。
私は見覚えがあった。いや、ここにいる新所長を除くカルデアのスタッフなら誰もが覚えているだろう。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトその人が普段使っていたものだ、と。

その光景だけで理解する。理解出来てしまう。
彼は失ったのだ。共に音楽を愛する相手を。この世界で唯一、共に音楽のことを語り合える相手を。それでもなお鍵盤を叩く。咆哮にも似たそれは、ここにいてもその気配を感じるほど。

『Dies、irae……』

指令室にいるスタッフの誰かがそう呟く。ラテン語だ。
意味は、そう。

心中で呟き、彼の感情に肉薄する。言葉を交わしたのなんて通信でのあれっきり。それでもやはり、彼は『音楽を愛する人』なのだと心を穿ってくる。あまりにもそれは鮮烈で、痛烈で、激しさを増していった。光を、つくるかのように。




その後、訪れた静けさに、問いに、私たちの希望は膝をつく。
知っていた。スタッフの誰もが、理解していた。きっと彼女もそれを薄々と感じていただろう。それでも彼女の前ではっきりと断定することは出来なかった。それこそがあの人を孤独にしているというのにもかかわらず、言えなかった。

このままでいいのだろうか。
全ての剪定事象を滅ぼすための実行部隊を少女に任せていいのかと。

人知れず、拳を握る。
彼女は立ち上がった。時間神殿の時とはまた違う顔で。けれどもしここで彼女が立ち上がれなかったとしても、自分には為せることがある。為すべきことがある。

それを果たす時が、いつか来るのだろう。
近い将来、きっと。







何もかもが一先ず終わり、異聞帯から退去する際、どこからかトゥインクル・トゥインクル・リトル・スターが静かに聴こえてきた。それはあまりにもうつくしくて、うつくしくて、届かないと分かっている空に手を伸ばしてしまいそうになるほどに。
この世界で音楽を紡ぐ人なんて、今はもう一人だけ。

────あぁそうか。
きっとこれが、音楽なんだろう。

この白銀の世界で、音楽がないと嘆かれた世界で、それでもあの人たちはこの煌めきを求めて、それを紡いでいたのだ。本当に、何てうつくしい。

きっと今、自分が感じている以上の何かを貴方たちは知っているのだろう。知っていたがゆえに、赦せなかったのだろう。知っていたからこそ、作ろうとしたのだろう。

私もそうなれるだろうか。
"貴方"が求めていた音楽を、成立させる一員になれるだろうか。

資材は少ない。娯楽に割く余裕はないと一蹴されるかもしれない。

それでも、私は、つくりたい。
そう、願ってしまったのだ。この異聞帯で。

神に愛されし芸術家を殺したと言う偽りによって存在を確立させる、あのおぼろげな人によって。それでも、うん、きっと悪くない。




そして願えるのならば、貴方に。