勇者と言う名の暴風が過ぎ去ったこの場所はひどく静かで、前と同じような穏やかさがゆるゆると過ぎていた。水槽の端に腰を据え、足を下ろし、目を閉じて考える。
私はあいも変わらずモーファとゆるゆるすごし、たまに外へ出て行く。どうやら今は夏のようで、魚が元気よく泳いでいた。もう何年経ったのだろうか。魔王は倒されたのだろうか。それすらもわからず、しかしわからないままでも構わないと、愚かな思考を是として私は生きていた。おそらくたぶん、生きていた。
モーファやダーク曰く、いわゆる私が元いた世界ではここは『水の神殿』を呼ばれる場所のようで、古くより神々と取り交わされた盟約に則った王国防護用の施設らしい。いまいち意味がわからないけれど、神殿に神の意思は宿り、神は神殿を通して賢者を選び、賢者は有事の際に勇者を見定め力を貸す、そうして勇者は王国の危機へと立ち向かう。そういうことになっている、と。
神さま、賢者、勇者。今までの自分が生きていた世界では、とんと縁のなかった単語たち。説明されても、きっと彼らが理解し得る十分の一も私は理解できていないのだろうと思う。そもそも、私はあまり頭が良くない。読み書きが辛うじて出来るだけで、計算とかになるとさっぱりだし、川や湖で魚釣りをして生計を立てるぐらいがちょうどいい人間だった。そんなただの人間である私は、なんの因果か、なんの運命か、ここでこうして魔物と成っているのだけれど。
「なに小難しい顔してんだ」
どん、と背中をわりと強く蹴られ、あわや底へ落ちるかと思ったがそこは何度も食らった経験、水槽の端に強く指を立てて踏みとどまれた。
抗議の目線を背後の上に向けると、ぽかりと空間に影が空き、その頭部に赤く光る双眸が爛々と光っている。勇者の影を掠め取り、生きながらえた魔物。影を失った勇者はいまでもこの世界にいるのだろうか。私には知る由もないけれど、もしかしたらこの影は知っているのかもしれない。
「どうせお前が何か考えたって、休むに似たりだろ。生命力の無駄だ」
明らかに面と向かって馬鹿にされている。軽い動作で彼は水槽内に屹立する柱へ足を向け、降り立ち私を睨み込んだ。赤い瞳。あの光る嵐とは全く異なる色合い。それを真正面から受け取り、私はある日のことを思い出した。
「ねぇ、ダーク」
「……あんだよ」
一瞬返答に間が空いたけれど、どうやら会話は続けてくれるらしい。したくなければそのまま消えてしまえばいいし、私もそれを気にしないタチだ。だから、まぁそれなりに機嫌がいいのかもしれない。
「いつだったか君は、『しあわせ』って何なのか問い掛けてきたよね」
あの日のことは思い出してしまえばよく覚えてる。勇者が通り過ぎ、すこししてから。モーファが今みたいに神殿の外に出ていて、この部屋にいたのは私とダークだけ。あぁ、そう、しんと静まり返っていた空間に、墨を落とすような声だった。
「……んなことを訊いたこともあったか」
「うん」
彼が私に何かを問うことは滅多にない。なぜなら私は元ニンゲンで、けれど今も完全には魔物とも言えない中途半端な存在で、つまるところ彼には馬鹿にされきっている生き物だ。だからこそ余計に覚えている。私が、しあわせだなぁ、と何気なく呟いたことに対する言葉だったことも。
その時は、問うたことが恥だったのか直ぐに姿を消してしまって、答えることはできなかった。だけど、もしあのまま彼がその場にいてくれていたとして私は答えられていたのだろうか。それは、その後も今まで何度も顔を合わせていたのに、今日の今日まで話題に出していなかったことで、無理だったろうことは自明のことだ。
『しあわせだなぁ』と呟いたことは確かで、しあわせだと思ったことも確かだったのだけれど、じゃあ『しあわせ』って何なのかと問われて、即言語化できる生き物でもなかった。だけど、知恵の女神の色じゃない瞳があからさまに私を睥睨するものだから、それに安心をしたのだ。そう、安心をした。
「私はね、あの時、大切なヒトたち……あ、ええと、種族の意味ではなく、同類・仲間って意味でのヒト、ね。私の言葉ではどう言ったらいいのかな。単語がないかも。とにかく、モーファや、テクタイトくんたち、スパイクのつがいやスティンガの群れ、シェルブレードたち、それに、君が」
ちらりと相手の反応を伺うと、思っていたよりも静かに聴いてくれている。だから言葉を続けた。
「生きていてくれて嬉しいなって、それは、私のしあわせの形のひとつだなってしみじみ感じたんだよね」
泣いて、泣いて、泣き枯れて、神殿の何もかもが殺されてしまったのかもしれないと絶望をして、生き残っていたテクタイトくんにいざなわれ外に出て、私は選んだのだ。もしかしたら、あのまま外で生きていれば自分は人間に戻れたのかもしれない。そのまま蒸発して消えてしまったかもしれないけれど、とにかく、数日でも陸の上で生きてはいられたと思う。それを全部捨てて、私はこの世界を選んだ。この世界を知ったことは偶然だったかもしれないけれど、これは紛れも無い自分の意志による選択だ。
「お前にとっちゃ、ここは何にも無いだろ」
それは、卑下ではなく事実を述べる語調。影の中より、光の方が色々なものが見える。水の中よりも、陸の方が何かといろいろ物がある。色彩だって、一見豊かな部類だろう。この蒼の世界に比べると。もしかしたら、勇者の影を直に掠めたことで何かを見たのかもしれない。勇者の世界の一端を。
「そうかもね。でも、私はここで水の色を知った」
きっと、あのまま人間の世界にいたらそんなことすら知らなかった。ただ水は、青くて、透明で、それだけだった。私の言語にそれを表すものはないけれど、各地で水の色が違うことはわかる。表現が出来ないことがとても惜しいぐらい。
「何もないなんて嘘だよ」
水の色を、水草の音を、魚の輝きを、テクタイトの子育てを、影の形を。いろんなものがここにはあると、私は知っている。もちろん未だ知らないことも、見分けがつかないものもあるだろうけれど、それでも、この世界のことをまだまだ知らない自分がいることを、知っている。そう思えることもしあわせなんだろうと思う。
「────そうか」
影はそれだけ落として、どこかへ消えてしまった。私と会話をして何か考えることがあったのかもしれない。
久々に頭を使って疲れた。ため息をつきながら後ろへ傾ぎ、床に背をつける。天井のレリーフをすこし眺めてから、目を閉じた。
すると、たふたふ、とやわらかな感触が頬に。あぁ彼が帰ってきたのだと、うっすら目を開け、水体と鮮烈な赤を確認したらまた目を閉じて、そのやわらかさを腕に抱きとめた。しあわせ、しあわせ。しあわせっていうのは、きっとこんな感触なのだろう、なんて取り止めのないことを考えながら、私は眠りに落ちた。
私のしあわせのなかに、君も確かに存在するのだ。
だから、お願い、消えてしまわないで。
モーファのためだけでなく、私のためにも、なんて、きっと君は見えない表情を嫌そうに歪めるのだろうけれど。